信州かくれ里 伊那山荘

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2011年 08月 23日

風呂のタイル張り

「足の裏に付いた米粒」…うまいことを言う。 
  先週、風呂場で一人タイル張りをしたレンガ積みの現代の名工、敏ちゃんが伊那山荘主人に    代わってその奮戦記を書いてくれた。それにしても、足の裏に付いた米粒とはうまいことを    言う。米粒にもならない資格をこの主人はいくつ持っているだろうか。思い出しながら指折    りを始めたが両手ではとても足らないので途中でやめた。

 伊那山荘の近くには仙流荘という宿泊施設があり、ここにそれなりの入浴施設がある。天然温泉ではないが、豊富な湯量に満足する風呂である。 黒河内に来て以来ずっとここにお世話になっているのだが、たとえ5分でも車で走らねば入れぬ風呂ではなく、やはり自前の風呂に入りたいと思う様になった。
 6月になると窯のレンガ積みがほぼ完成したのを機会に、次の課題である風呂を築造する思いは更に加速した。 私はかなり立派な洋風のバスダブを手に入れ、稚拙な積み方ではあるが、コンクリートブロックの基礎を積み上げた。そこで初めて浴室の築造構想を棟梁達仲間に伝えたところ、増築するより現在の納戸を改装し浴室とした方が良いのではないかとの事となった。
かくして 1級建築士(それは足の裏についた米粒のようなものという・その心は、取っても食えない、かといって取らねば気の済まないという例えの如き資格という)と、高名大学電気学科卒の元大工見習氏が、事前調査の実施と称し、何と納戸の床をさんざんハンマーで叩いた後、容赦もなく1.5尺角程の穴を空け逆立ちし床下の構造チェックとあいなった。 置き石基礎に栗の土台であるが、何故か床下部分の木部には、根がらみを含めセメントのノロ引きがなされていて、土間は箒目が見える程綺麗であるという。 想像するに湿気防止策と考えられるが、効果の程は如何なものなのだろうか?
 幸か不幸かは別とし? ここに風呂を作ることについて特に問題はないとのこととなり、次の工程に彼らが掛かる前に、私は自分で積み上げた基礎を涙ながらに大ハンマーを振るい取り壊し、捨て場の山へと搬出した。
 精鋭? 工作部隊がやって来ると山荘は、一気に活気づく事となり、築造工事に取りかかったのだが、解体工事に取り掛かった集団から、おー-すげぇーー! と歓声が上がり、私を呼ぶのである。 何があったのかと向かうと、壁の中に昔のガラス窓が慄然と出現したのである。
前オーナーが改装の際壁の中に閉じ込めたものと思うが、幅6尺*高さ4.5尺の見事な吹きガラスの立派な格子窓である。 ユニットバスのような小さな窓を想定していたのだが、皆でこれを使わぬ手はないと確認し、大切に保管する事となった。
 私は言われた通り束子で丁寧に桟を洗い、荒れた木部を優しくペーパー掛けした。
浴槽排水の枡を設置し、土間コンクリートを打ち、棟梁の姉さん宅から戴いたステンレス浴槽を据える。更に洗い場の土間を作るに当たり私が壊し、処分場に運んだブロック片をほぼ全て持ち帰り、土間下部に入れ込み、コンクリートを打ったところで、浴室の概要が見えてきた。
 そこで仕上げの議論となり、床には窯場の土間と同じく御影石150角を貼ることとした。
しかし壁に至ると意見は交錯し、安く上げるべく波板でも貼ればよいのではないかとか、どおせなら桧風呂にしようという意見があり、最終は私の判断に委ねられた。
 こうなればもう方向は決まったようなものであり、私は皆さんの期待を背にネットオークションに桧材を頼ることとし、少し高いかなと思いつつ、目先の必要性に購入やむなしとその材料の送り先を、伊那山荘と記した。
 結局最終的な仕様は、床と立ち上がり45センチは15センチ角の石張りとし、それ以上の壁を桧板張りと決定し、名工? 髙井が私の見る目では事も無げに張り張りあげていった。
その間入り口のドアーを如何にすべきかという課題が起こったのだが、結局私の持つ中古アルミドアーは余りにもサイズが大きすぎるということから、お蔵入りとなりまたしても、今井棟梁の技に期待することとなったのである。 まさに何かあった時の棟梁頼みと言うことか・・・・
 かくして何とか形が整い、灯油ボイラーの設置手配が出来ぬまま、庭で残材を燃やしながら、大釜に沸かした湯での一番風呂となった。 
 おまえ先に入れと言いながらも、オーナーの特権をいかしての? 一番風呂とあいなった訳だが、そろそろと思う頃髙井がセレモニーするけど良いかー? と声を掛けて来た。 
 見れば缶ビールとカメラを持ちさあどうぞ ! という・・・思わず笑みがこぼれたことは間違いない。
 ほのかな桧の香りを覚えつつぐいと呑むビールの味になにも言うことはない・・・・
浴槽に浸り大きな窓辺から見る山荘北側の山の斜面は、高い空まで大きく広がり、季節ごとの草花として何を期待するか? 
 また楽しき悩みが増えたことを、少しうっとうしくも心嬉しく思った。
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# by okasusumu | 2011-08-23 09:32 | 山荘概要
2011年 08月 23日

コンクリートの畔

コンクリート畦のこと
 NHKテレビ「わが町の棚田を守れ」の放映後のことです。視聴者からNHKに電話が入り、そしてその内容が発言者に告げられました。内容は「田んぼの畦がコンクリート化され生物が棲みづらくなった」と言う発言に対して、コンクリート化された畦など見たこともない、どこにあるのかと言うものでした。問われて田んぼの光景を思い浮かべてみましたが、稲作地域の田んぼはすべてコンクリートに仕切られていますので「どこと言われても、どこもかしこも」と答えざるを得ません。その答えではNHKは納得しません。「具体的にはどこですか」と突っ込んで来ます。そこまで言われると自信がなくなります。
 同じ週の土曜日、相模原の相模川の水を引く田んぼの田植えに手伝いに出かけました。以前、我が棚田の作業に手伝いに来てくれた人たちの田植えです。手伝いに対する返礼は手伝いです。この義理が果たせないようではNPOの環境活動などやめたほうが良いと思っておりますので、田植えのシーズンはあちこちに出かけることになります。そこで自信を取り戻しました。その相模原の田んぼも次の日に行った酒匂川から水を引く山北の田も、思い起こせば不耕起栽培を学んだ利根川から水を引く佐原の広大な水田もコンクリートで仕切りされ整備されていました。田植え機などの機械をコンクリートに接触させないために境界に土が盛り上がり自然の畦のように草が生えている部分がありますがわずかなものです。
 考えてみれば、自然の畦だとすれば、水争いだけでなく境界争いも絶えないはずです。維持作業も大変で、共同作業も常に行わなければなりません。地域全体のことですから個人ではどうにもならないという点もあるはずです。水田は多面的機能を持つと言いながら、コンクリートで仕切れば、区画整理ができて、作付けの有効面積も広がると農業関係者は考えますのでコンクリート畦は広がる一方です。
 NHKの間違い探しを趣味とする人かどうかは分かりませんが、連絡を入れた人の地方には、あるいはコンクリートの畦はないのかもしれません。しかし、それは数少ない地域、羨ましい地域です。残念ながら、美しい畦が残っているのは、山田の小規模の田んぼしかありません。愚かなことにコンクリート畦は観光化した棚田にまで及ぼうとしているようです。
 ともあれ、コンクリートの畦には美が感じられません。棚田が美しいのは、自然と人とが織り成したものだから、人の仕事が見えるから、物語が読めるからです。
今回のテレビ取材の前に草刈りをしたことに、映像でしか物を考えないNHKの人は違和感を覚えたようです。私たちは放置された自然が見苦しいと感じたからこその作業でした。これは、映像でしか自然を見ない人たちと、常に自然の中にいて、放置された自然に押し寄せる自然の脅威を感じる私たちの違いかもしれません。
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# by okasusumu | 2011-08-23 09:24 | 里山逍遥
2011年 08月 17日

双体道祖神

双体道祖神

 安曇野豊科の双体神。注意深く探していたら、電柱に張られたビラが目に入って来た。1週間後に近くの公民館で開催される講演会の案内である。歴史作家の井沢氏などが安曇族を語るらしい。ビラを見て頭を駆け巡ったのが傀儡子(くぐつ)であった。。f0067937_17375238.jpgf0067937_17381883.jpg

 道祖神が傀儡子の守り本尊であることはよく知られている。本来、海人部(あまべ)の民であった彼らが山住のたみとなり、もともと海人部の祭界であった矛を木の杖に換え、朝廷の馳使(はせつかい)になり、彼らの信仰する豊穣をもたらす神霊の宿る人形をクグツという容器にいれて諸国を祝福して歩いたから海人部の民が傀儡と呼ばれるようになったらしい。長野県の山奥の安曇野に入り込んだ安曇族は海人部の民だった。安曇族 ー海人部ー安曇野ークグツー道祖神であり、道祖神が多いのが頷けるのである。こんな話だったら聞いてみたいが、山荘からは中央高速を使って1時間、話の内容を推理するだけにした

路傍の石仏と民間信仰     
大護八郎  (昭和54年太陽社「日本の石仏」)

石のほとけ・石のかみ

石仏といえば、いうまでもなく石を素材とした仏像の意であり、金銅仏や木彫
仏等に対比される言葉であるが、特に近年著しく関心の高まりつつある石仏は、
いささか石仏の名をもって汎称するには問題がある。
 戦後しばらくして急に活況を呈した石仏は、まず道祖神であり庚申塔であった。
道祖神は地方では一般にさえの神といわれ、文献的には奈良時代の『古事記』『日
本書紀』にその発生譚が語られ、現在においても最も多くの人々に愛好されてい
るむので、長野県・群馬県をけじめ、東日本に数多く見られるものであり、庚申
塔もまた東日本を胞としながらも、全国的に著しい分布を兄ているものである。
 道祖神の本末の信仰と、現在に至るまでの造像・信仰の分化の過程には多くの
未解決の問題をはらんでいるにしても、既に占代において邪霊屈伏の神として考
えらていたことは明らかである。
庚申信仰、2、3世紀の頃、中国の道教徒によって唱えだされた。人間の体内に宿
るI.戸という虫が、庚申の晩に限り、人間の寝静まるのをまって体内から脱け
出して天帝の許に参り、その人間の犯した罪をこと大小となく報告する。天帝は
その報告に基づいてさまざまの罰を人間に与える。よって庚申の晩は徹宵して二
戸の体内より脱け出るのを防ぐこととなった。後に仏僧等の干与もあ って、こ
の夜は庚申の神に報寮し、経典等を誦してより効果的なものとすることになり、
近世に入っては全国津々浦々の庶民の問においても庚申待・庚中講が開かれ、講
中によって物凄い数の庚申塔の造立をみて今日に至っているのである。
 これらの道祖神・庚申塔は僅かながら木彫のものもあるが、その大半は石造の
もので、しかも村外れや辻などの路傍に造立され、風雨にさらされて佇立してい
るのである。最も数量も多く関心の高い道祖神・庚申塔は、仏僧の干与によって
蓮台のLに乗ったり、庚申塔の中には主尊を仏像にしているものもあるが、これ
らをもって仏と考えてきた様了はあまり兄られず、神としてみられてきたのであ
る。この故をもって石仏というよりむしろ石神と称すべきものであるが、今日な
お一般には石仏の名が通用している。 道祖神・庚申塔に次いで、その数量の
多いものに馬頭観世片があるが、これは系譜的には仏教の七観盲の一の馬頭観此
七日であって、石仏の名をもって呼ぶのに抵抗はない。しかしながら全国的に信仰
の実態を調べてみると、おびただしい近世以降の馬頭観匹音信仰は、馬の守護神
としての馬樫神・蒼前様と異なるものでなく、殊に東北地方の駒形神社には、山
の神的性格が濃く、道祖神と見誤りがちな木造の男根が報宴されている。おそら
く日本民族の、古代からの家畜としての馬の飼育に当たっての信仰に、途中から
七観音の一としての馬頭観世音が、その像容から在米の信仰の中に潜りこんで、
東北地方以外ではその座を奪っていったものであろう。
 その他、石仏と汎称されるものの中には、水神としての弁才天・作神としての
えびす・人黒・山の神像・田の神像、蚕神としての蚕上神、ドの病に霊験あらた
かな淡島様・山王様その他諸々の石神があり、神像としてあらゆる神が現われて
くるのである。
 勿論石仏の中には、仏説からきた地蔵・観音をはじめ、阿弥陀如来から、あらゆ
る如来像・菩薩像・天部・明王の諸像がある。その絶対数は、神像形・仏像形相
半ばするといってもよろしかろう。それにもかかわらずこれらを石仏の名におい
て汎称することは問題であるが、それは単に名称にこだわるだけでなく、往々に
して信仰の実態を見誤る恐れなしとしないからである。

石仏造立の時代的変遷

現存する石仏の八割近くは近世以降の庶民による造立と言っても過言ではなかろう。ことに東日本においてはその比率はさらに上回る。しかしほかの仏像と同様、庶民による造立以前、しかし中世以前の造立者は中央もしくは地方の豪族並びに僧侶、修験者であった。それは造立者の階層を異にするだけでなく、造立・礼拝の意図が近世以降とは大分異なっていたということができる。
近世に近い中世後期の室町時代の中頃から、板碑やその他の石造塔の中に、庚申待や月待の、近世以降花開く民間信仰関係のものが現われてくる。しかしそれ以前においては、仏教上のいわゆる如来・菩薩・天部・明王部等の純然たる石仏が主となっている。
 これらの石仏は彫法からいって、自然の岩壁を磨きたててそこに仏像を陽刻もしくは陰刻する磨崖仏と、河原石や岩壁から切りとった石材に、丸彫り・陽刻・陰刻するものの一万に大別される。磨崖仏は京畿・大分県・福島県に集中するが、その他の地方にも若干あり、近世以降にあっても、庶民・に心の造像とみられるものも存在する。
 磨崖仏の中には梢穴の周辺に残るものもあるので、磨崖仏を中心に木造の仏殿あるいは廂様のものを建て、一種の仏殿様式をとったもの、あるい。は寵風の横穴を穿ってその奥壁・側壁に仏像を彫刻したものもあるが、本来野天の露仏であったと考えられるものもあるそこで彫られた石仏は多くが侵線より高幻にあり、仏殿の本尊と同様に礼拝の対象としたものであろう。磨崖仏の中には深山幽谷ともいうべき人里離れたところにあって、修験者が行を結ぶ折の礼拝仏・加護仏となったとみられるものもあり、磨崖仏造立の一つの意味を窺わせる。
磨崖仏以外の、いわゆる独立石仏も、意とするところは礼拝の対象であり、仏殿の中または石寵に納められ、時には露仏としてあったと考えられるものもある。
総じて近世より以前のこれらの石仏は、大方は礼拝の対象仏であり、像容も仏像の手本である儀軌にのっとったものが多く、当0 これらの造立を吋能にしたかなりの財力を待った仏教信者の豪族か、その庇護による仏僧の造立で、若干は衆生の零細な喜捨に頼ったものがあったにしても、その量は微々たるものであったろうことは、当時の社会制度からも推察されるところである。これらは概ね奈良時代以降であり、殊に密教の盛んになった平安時代後期から鎌倉時代が全盛期とみられる。
奈良時代以前にも、飛鳥地方に主に見られるおそらく渡来人の手になるであろう男女抱擁像や善悪二神像、猿石その他がある。さらにそれに光立つ古墳刀立物としての福岡県岩戸山・石人山古墳をはじめ、北九州の大分・熊本の三県や山陰の鳥取県などの西日本に、石人・石馬などを兄ることができる。これらはどうも石仏の系譜からは異質のものである。
 現物は残らないが、『日本書紀』に敏達天皇の時に、百済から鹿深臣と佐伯連が仏像とともに石像を持ち帰ったとあるので、大陸系の仏像の将来されたものもあった筈であるが、これらの系列は、奈良時代以降の日本の石仏に直接つながりそうもない。
これらとは別に、奈良時代遍述の各国の風上記の中に、地名伝説と相まって仏や人間その他の形に似た自然石の、いわゆる「像石」信仰が現われてくるし、像石と限らず日本民族の古代信仰の中に立石・岩座・岩境や、宇佐八幡奥の院の御許山頂の三つ石等の出獄信仰と関連した岩石に関する数々の信仰が現われている。近世以降の民間信仰の石神・石仏は、
むしろこれらの石に関する民族信仰の再生・発現としての要素がより濃く現われているように思われる。

道祖神発祥の地は信州か

近世という時代は、ある意味においては、近代を経て現代に直結する時代として注
目すべき時期であり、兵農不可分の中世という時代から、兵農分離、さらには武士の城下町集住によって、農村は純然だる農民の社会となった。権門・蒙族・社寺に隷属していた石工は戦国時代の争戦によって旧族の多くは解体し、その庇護下にあった社寺も往年の経済的基盤を失い、勢い農民・町人に依存せざるを得なくなった。殊に元和堰武以来、城池の新築は勿論、修覆さえも大きな制約を受けて石工は失職して在方に流浪し、在方にあっても次第に高まりつつあった経済力と、武ヒの直接監視から離れて、富有層は前代までの武士に兄倣って信仰~の講を結成するとともに、諸々の信仰Lの造塔並びに墓石の造立に意欲を燃やすにいたり、ここに急速に村村の石仏造立の流行をみたのである。村村の墓地に初めて寛文から元禄期に墓石の造立をみ、その傾向が加速度的に高まったことがよくこれを証している。庚申塔の造立の最初のピークが寛文頃にあり、その他の道祖神や馬頭観世九日、弁才天その他の石仏の造立は傾向的にはややおくれるが、少なくとも中世までに見られなかったこの時代の顕著な特色となっている。寛文頃から庶民の石仏造立が急に始まったからといって、それ以前にそれらの信仰が庶民の間に無かったわけではない。
彼等は造像供養こそしなかったが、自然石や塚等の造立によって信仰の表白はしていた。寛永前後の庚申塔が、東北地方から九州にかけてほとんど同時発生していること、そしてあるところに始まった庚申信仰と庚申塔の造立が遂次伝播していったものでないことが、これを証している。
しかしながら双体道祖神のようなものになると、各地の研究家によって、本家争いがないではない。調査の進むにつれて各種の類型を編年し、その分布の流れを追って本源の地を割り出そうということも、必ずしも不可能なことではあるまい。双体道祖神の中心はなんといっても長野県と群馬県が挙げられようが、それを直ちに道祖神信仰の初源地におきかえることは危険である。しかし一つの信仰の発祥地がどこかにあって、逐次拡散されていったことは考えられることである。例えば道祖神が傀儡子(くぐつ)の守り本尊であったことは事実であり、笹谷良造氏は「傀儡子の民」(「国学院雑誌」59巻第1号)において、本来海人部の民であった彼等が山住の民となって、もともと海人部の民の祭界であった矛を本の杖に代え、杖部として朝廷の馳使になり、彼等の信仰する豊饒をもたらす神霊の宿る人形をクグツという容器に入れて、雛廻し(夷廻し)をしつつ諸国を祝福して歩いた故にクグツといわれた。長野県の山奥の安曇野に入りこんだ安曇氏は、海人部の民であったというのである。氏はそれをもつて道祖神神信仰の基が安曇野にあると言われるのではないが長野県の道祖神研究家の中には双体道祖神発祥の地をこの辺に求めようとする動き
がないわけではない。
 確かに記紀の道祖神(ふなどの神・さえの神)由来譚には、男神が邪神を駆逐するために杖を投げており、その杖がふなどの神とされ、磐石をもって塞いだのが塞ります黄泉の大神ともされている。また傀儡子は大陸からの渡来民との説も有力であり、夷廻しやオシラ遊びとの関係も云々されている。また信州に濃く、東日本中心に分布をもつ巨木や立石に依り憑くミシャグジ信仰をもって道祖神とし、出雲からやってきた諏訪氏族に屈伏しながらも、信仰的に支配した洩矢一族との関係を云々する説もある。
 右の二つの説にもみられるとおり、長野県と道祖神との関係には注目すべきものがあるが、それをもって直ちに群馬県よりも長野県を元祖とするには、道祖神信仰の本質がなお解明しきれない今日、無理であろう。ただ道祖神をもって、柳田国男が『石神問答』で、道祖神即ち塞神の塞はサク・ソコ・セキ等と同根で辺境の意であり「現に信州の佐久郡の如き、上毛の渓谷と高からぬ山脈を隔て、もと湖水ありて土着の早かりし地方と見受け候へば、蝦夷に対立して守りたる境線の義なるべく候。従ってサグジ又はシャグジも塞神の義にして、之を古代に求むとせば、或は石神とは直接の連絡はなく、却って甲斐などの佐久神と同じ神なるべきか」と述べており、佐久神即ちミシャグジ神と道祖神の関係を強調するとともに、信州がある時期に北方の対蝦夷の境線の神かともされている。
 この説を以てさらに敷行すれば、道祖神が信州・上州・甲州に濃く、この辺から周辺に波及したとも考えられ、関西にあまり道祖神が無く、九州に入って再び見られることは、この地が対隼人との境線であったことによって理解される。記紀にその発生譚があるからといって、勿論これを道祖神信仰の始まりということはできないし、その発生はさらに時代を遡るであろうし、あるいは外来の信仰であったかもしれない。よって近世以降の道祖神の造立の発祥地をそれに結びつけて考えることは無理であろう。ただ信仰の分布から推して、東国にその基があったであろうことは想像に難くない。
 信州の石仏で他地方と異なるものは、頭上に複数の馬頭を戴いた木曽郡中心の馬頭観世音の存在であって、さらに二体・一二体並刻像も同様である。その数は無病息災を祈り、あるいは供養する死馬の数という。在米種の小型の木曽駒は、木曽の材木運搬と深い関係があり、この地方の石仏の大半はこれで、村外れに数十体の馬頭群をいたるところに見ることができる。木曽を主に何故こうした様式が生まれたかは、地方色として注目に価しよ
う。

石像に見る山の神と田の神

日本の民間信仰の基盤として、稲作の豊饒をもたらす田の神は、新嘗を終わると山に帰って山の神となる。春先にはまた里に降りて田の神となるとは周知の事実である。中には季節による交替をしない純然たる山の神のあることも云々されているが、ここでは問わないこととする。
 ところがこれ程普遍的な山の神・田の神が、石像となると山の神は群馬・新潟以北の東北地方に、田の神は鹿児島県の旧島津藩領に集中して、他の地方にはほんの僅かを見るだけである。群馬・新潟の山の神は十二天・十二様と称され、一年十二か月にちなんでの作神であり,像容は双体道祖神によく似た男女2神の双体像であり、まま群馬県には単独像もある。田の神は一千躰近くが旧島津藩領に集中し、神官像・僧侶像とともに仕事着姿の
農民像が、杓子とお碗を主に持ち、甑(こしき)簀を冠った後姿は男根そのものであり、
若干の双体像もあるが多くは単体像である。その像容・祭事は道祖神によく似ており、特に伊豆型といわれる単体道祖神により近い。
 これ程日本民族の基本的な田の神・山の神像が、日本の両極にのみあって中央部に何故に無いのであろうか。勿論、像の造立をみていない中央部にも田の神・山の神の信仰はちゃんと存在する。思うに、日本の中央部は大陸からのさまざまな信仰がいち早く伝播するとともに、生活文化の展開も早く、民間信仰自体も次次に分化して、それに伴って像容自体も分化をくり返していったためであろう。
田の神として稲作その他の作物の豊作をもたらす神としては、弁天その他の水神が分化し、さらに恵比須・大黒天像として機能を分かち、庚申や道祖神から地蔵・観音等の仏まで作神としての一翼をになっているのである。作神としての鼻取り地蔵・田掻き地蔵、田の神の機能の一つにある子孕み・子育ても如意輪観七日や地蔵がちゃんと分担しており、牛馬の無病息災には大日如来が、むしろ専業的機能を受け持たれていたのである。
 北日本の山の神像は、山仕事の安全を護り、十二様のように豊作の神とされる他に、安産・子育ての神として、山の神が産室に臨まれぬ限り出産はおこなわれず、また生まれた子の一生を出産時にそこに立合った山の神が握っておられる。牛馬の出産・成長もまた山の神の任務と考えられ、日本中央部の八百万の神の機能を一身に担っておられるのである。
このように素朴な形の山の神・田の神信仰のまま石神、石仏造立期まで受け継がれてきたからには、他の石神・石仏造立の必要を感じないのは当然である。勿論日本の北と南の両極には、山の神・田の神のみの造立ばかりというわけではない。東北における大黒天像、鹿児島における保食神は多く、庚申塔や道祖神像、その他のものの造立も皆無ではない。

同一の地下茎につながる石仏、石神
稲の成長に欠くことのできない水の神としての頭上に鳥居を戴き、矛や宝珠を持つ弁才天の石像は、農村の畦道や泉のほとりなどによく見かけられ、農民の水に対する並々ならぬ信仰をみてとることができる。しかし琵琶を弾ずる弁才天像もまま見られる。琵琶を弾ずる像は、立日楽の神こ云能の神として一般に受けとられるにかかわらず、立日楽に無縁な農村に何故にこの像が見られるのであろうか。古老の言によると、苗代や蚕室に瞽女を招いて三味線にあわせて歌ってもらうことによって、苗の成長をはかり蚕の成育を祈ったという。
 このように農民の願望は悉く豊饒祈願に連なる。日待供養塔・月待供養塔も同
様であって、「日月清明・風雨順時・五穀豊饒・天下泰平」が、農民のあらゆる祈
願に先行する。本来の信仰が何であれ、庚申信仰も道祖神信仰も、農民の多くは
これらを作神として受けとってきた。豊作こそ個体・種族保存の要であった。
 また多彩な石神・石仏の銘の多くに「現当二世安楽祈願」とある。現世と来世の
安楽は人間の究極最高の願望であったが、それとて五穀豊饒こそが基盤であり、死
後心安らかに子孫の繁栄を見守って満足できるのも、子孫の飽食あってのことである。
阿弥陀も、観音も地蔵もその他諸諸の石仏造立も、来世の安楽往生の功徳に連なるものにちがいないが、現世において食うや食わずのきびしい生活を生きぬいてきた農民にとっては、蓮の台に乗り香華聖楽のあの世に楽しみを甘受するよりも、まずは飢餓の苦しみから脱れることを理想とした。仏事における「お高盛り」の白飯が、死者への最高の供養であったのである。
 阿弥陀の石像造立は、その功徳によって西方浄土に赴くことへの期待はあるにしても、路傍の阿弥陀の石仏に期待するものは、もうちょっと現実的なものであった。薬師如来像の前に溜った水で眼病を癒し、自分の病む個所の石仏をさすり、持病の平癒を祈願する。庚申様に掛けられた小さい竹筒の「おみきすず」のお水が、治病の薬として戴かれる。人はこれを迷信といっても、他にすがるものもない一昔前の庶民は、そうせざるを得なか
ったのである。そこに民間信仰の石神・石仏の理屈を超えた信仰があったのである。
 そこに造立された石神・石仏が本来どのような神であれ仏であれ、庶民はその詮索はどうでもよかったのである。そこに日本民族本来の多神教の伝統があった。 それぞれの石神・石仏の本質究明の努力は勿論大切である。しかし庚申信仰の本義を、文献的に明らかになしえても、それが直ちに庶民のおびただしいまでの庚申塔造立の意図に連なるわけではない。 所詮は一つの地下茎に連なる同根の石神・石仏であったのである。
               (日本石仏協会 大護八郎  昭和54日本の石仏)



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# by okasusumu | 2011-08-17 17:38 | 山荘周辺の文化財
2011年 08月 17日

伊那谷へ

 信州伊那谷を訪れました。
 都会からの移住者が多い地方です。その地で不動産業を営む北原さんを訪ね、厚かましくも、「物件」として扱っている高遠の空き家を見せていただきました。
高遠は数年前に伊那市と合併した桜で知られる落ち着きのある城下町です。
北原さんに案内され、 訪れたのは国道沿いの空き家でした。普通の客のように玄関から入りましたが、声をかければ誰かが出てきそうな感じがします。卓袱台の上の新聞は広げられたまま、読み手が帰るのを待っています。裏の畑のどこかに時空の裂け目があって、この家の人はそこに落ち込んで、異空間に紛れ込んだ。そんなミステリー小説のシーンのような室内です。壁に4枚の写真が掲げられていました。祖父母と曽祖父そしてもう一枚は、新聞の読み手の奥様でしょう。ここで生まれ、暮らし、ここで死んでいった人たち、この家の歴史がそこにありました。
過去を受け継ぎ、未来につなごうとした人がこの歴史の最後の一人になってしまいました。若者が都会に出た集落は歯が欠けるようでした。職場がないので若者が出て行くのは仕方がありません。気がつくと冠婚葬祭も、共同での道普請も、祭りもできなくなっていました。今では十軒の集落の、六軒は夜になっても明かりが灯りません。ふるさとが消えていきます。
写真を見つめながら「未来につなぐことが出来ない」と悟った気持ちを推し諮ることは出来そうにありませんが目には浮かんできます。一升瓶を抱えながらの一人酒です。
北原さんは、ここのおじいさんは、時空の裂け目ではなく、「病気になり近くの市に住む子供に引き取られた」と説明してくれました。
ここでは集落の消滅が目の前まで来ています。東京から車でわずか三時間の地、他の山村は推して知るべきでしょう。病める山村の偽らざる姿です。

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# by okasusumu | 2011-08-17 11:18 | 里山逍遥
2011年 08月 16日

コモンズ

コモンズの悲劇
 林の中で開催された自然塾の時のことです。雑木林の道ぎわに林床の落ち葉を集めた堆肥場があって、「ここでカブトムシの幼虫が育っている」とこの場の制作に携わった会員が誇らしげに小声で話していました。それを聞いていたのか、参加者の一人が「こんなに落ち葉をかき集めてもいいのかな」と誰に言うとなくぼぞぼそとつぶやきました。堆肥場の制作者としては聞き捨てになりませんが、ただ昔ながらの事をしただけと思っていますので、なんと反論して良いのか分かりません。
他の会員が「半世紀近く放置してあったので、栄養は十分行き渡っているから」と助け舟を出して、塾生は納得したようです。
 山の落ち葉は、化学肥料のない時代、田畑の栄養に欠くことが出来ない資源でした。しかし、誰でも持ち出せるわけではありません。入会権という利用権があるのです。よそ者が持ち出すなど許されることではありませんでした。権利者は、残さず、掃き清めるようにきれいに持ち去りました。頭はもっぱら田や畑の肥料のことだけ、先のことはありません。木々は自分たちのために有機物を作りだしていたのですが、それを人に奪われてしまいます。栄養失調で山はだんだん痩せて行きました。痩せた山にはコナラやクヌギの広葉樹を育てる力がありません。痩せ地に耐えるアカマツ林、そして禿山へと移行して行きます。葛飾北斎の描く「五十三次」、山の木は松、そうした山ばかりだったのでしょう。
塾生のつぶやき、そして難しい本に出てくる「コモンズの悲劇」とはこのことを言っています。コモンズは共同利用地、入会地のこと。昔は使い過ぎによる悲劇でした。今は笹ぼうぼう、だからと言って、しがらみにより、うかつに手入れが出来ない利用放棄による悲劇、古くて新しいコモンズの悲劇です。
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# by okasusumu | 2011-08-16 11:03 | 里山逍遥
2011年 08月 15日

秋そばと放射能

 震災の翌日、倉敷に住む娘から電話があり、原発事故の影響をいち早く心配、しばらくの間、伊那谷の方に行っていた方が良いと言います。工学博士の夫君の意見のようです。ありがたい忠告です。長野も真夜中に激しく揺れたと言う方向に話が移り、移転はうやむやになってしまいましたが同じ情報に接しながらもいち早くメルトダウンを想定し、放射能の飛散を予見したのは流石です。
 原発事故後避難地区に指定された福島の阿武隈山地を二年ほど前の夏の初め、あてどなく歩き、たばこ畑に迷い込んだことがあります。
 大きな一枚一枚の葉の上で夏の光が飛び跳ねていました。懐かしい光景、記憶にある臭いです。
 高度経済成長期までは銘葉、秦野葉の産地として丹沢の山裾にもたばこ畑が広がっていました。そこは子供たちにとって禁断の地。農家が大切に育てる桑の木を、こっそり切り取ってチャンバラの刀にした悪がきもこのたばこの畑には入りません。宮沢賢治の「風の又三郎」には、知らないで葉をもぎ採った転校生、三郎を「専売局にこっぴどく叱られるぞ。俺、知らない」と白い目で見る友達、そんな彼らが三郎をかくまうシーンが描かれています。私たちも又三郎の話と同じで、産地では、専売局の脅しが十分に効いていました。農家は葉の一枚一枚を大切に育て上げました。大きな葉を付ける茎は木と呼ぶほどに太くなります。その分肥料が必要で里山の落葉落枝が堆肥の主原料になりました。下から順に葉を掻きますが、取り終わるといつ植えたのか秋そばが育っています。
 そばおかぼ丸い山越す秋の風
関東大震災(大正十二年九月)で生まれた湖(震生湖)を調べに秦野盆地の南側の丘陵にやってきた地質学者、寺田虎彦の句です。腰を下ろし、汗をぬぐう虎彦をかすめて一陣の秋風が行過ぎます。そば畑がざわめき、波のようにうねりました。白いそばの花はなぜか物悲しさを漂わせ、虎彦を物思いの世界に引きずり込みます。
風土が生んだ美しくも寂しい秋色の景色が消えてかなりの月日がたちます。畑は、耕作が放棄され草ぼうぼうになってしまいました。
 先週の土曜日、そんな畑に秋そばの種を撒きました。「それでよいのかそば打ち男」というエッセイ集が世に出回るほどそば打ちは人気があります。その人気を利用して「手打ち」とセットで塾生募集をしたところ沢山の人が集まりました。「手打ちそば」もそば粉から自分で作ったとなれば上手さは格別です。都市と農村の共生、対流はやり方しだいでは、案外難しくないのかもしれません。
 ところで阿武隈山地の葉タバコ、まだ具体的な話は出ていませんが、収穫の頃になるときっと放射能の心配が出て来ることでしょう。米もそばもきっと心配性の対象になるに違いありません。今日も大文字焼の薪が東北産であることから行事が取りやめになったとテレビがニュースを流していました。「頑張ろう東北」と言いながら、本音では東北産を差別する、口先ばかりの輩に日本人はなってしまいました。過剰な反応にいろいろなイベントが中止になるのはさびしいことです。
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# by okasusumu | 2011-08-15 21:33 | 里山逍遥
2011年 08月 15日

月見草

ツキミソウ(月見草、Oenothera tetraptera、

あちこちに咲き可憐で懐かしい花だが名が出てこなかった。
富士山によく似合うと言われ思い出した。
 黄花のオオマツヨイグサ、マツヨイグサ、メマツヨイグサのことを月見草と呼ぶこともある。

f0067937_1147519.jpg太宰治著『富嶽百景』にあらわれる月見草は、実際にはマツヨイグサであるとされる。また、「月見草油」というサプリメントが流通しているが、ほとんどの場合、本種ではなくマツヨイグサかメマツヨイグサ由来である。また古来からの名家である植月家は「"月"見草を"植"える」から由来する。
 つきみぐさは、アカバナ科マツヨイグサ属に属する多年草である。メキシコ原産で江戸時代に鑑賞用として渡来した。花期は6〜9月頃で、花は夕方の咲き始めは白色であるが、翌朝のしぼむ頃には薄いピンク色となる。

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# by okasusumu | 2011-08-15 11:50 | 山荘周辺の草花そして虫たち
2011年 08月 15日

エネルギー政策

 震災とエネルギー

 震災直後、ガソリンが入手困難になりました。震災当日三月十一日に伊那谷へ行き、翌日急ぎ帰ったため往復四百キロを走りガソリンが少なくなっていました。それでも燃費の良いプリウスですから何とか二週間を持ちこたえました。
 スタンドの長蛇の列は続いていました。なんと口と行動が違う人が多いのか嘆いたものです。並んでまでしてマイカーに給油する人が、東北がんばれは片腹痛いと思ったものでした。列が消えた段階で近くのJAのスタンドによりました。すると、顔見知りの販売員が、会員でなければ給油しませんと、ぶっきらぼうに答えます。会員ではないけれど、今までずっといれていた店です。客が増えてにわかに態度が大きくなってしまいました。以来、近くですがそこでは入れません。信号待ちをしていると暇になった例のスタンド販売員が物欲しげな目で頭を下げます。笑顔は返しますがそれきりです。不思議なことに、この騒動でトイレットペーパーやティッシュペーパーもスーパーから消えました。買い溜めに走る人が現れたのです。ずっと昔を思い出しました。
「トイレットペーパーどうしますか」
スーパーマーケットからトイレットペーパーや洗剤が消えた日、心配になった妻が発した言葉です。結婚した直後のことでした。昭和四十八年、原油価格が四倍に引き上げられ、国内の物価は異常に高騰、狂乱しました。第一次オイルショックです。「トイレットペーパーが無くても死ぬことはない」と言いつつも、「みんな買いだめをしている」と言われると先行きが不安になったものでした。
先年訪れたデンマークも、このオイルショックを受けた資源のない国で、当時のエネルギー自給率は二%。原油価格が一挙に三倍以上に跳ね上がり、エネルギー源を他国に依存する怖さを思い知らされています。
他国依存の怖さを知った日本とデンマークの対応の違いは、その後の自給率に表れています。日本は現時点で、主要先進国では最低の四%、ウランを輸入する原子力を準国産として含めても二0%に過ぎません。オイルショック後も石油の消費量は増え続けました。喉もと過ぎて、怖さを忘れてしまいました。
一方、デンマークは二〇〇〇年の時点で約一四〇%、完全自給を達成、エネルギーの輸出国へと変貌を遂げています。その中心をなす自然エネルギーが風力です。空港を降り立ってまず目に付いたのが風車でした。同行者が一斉にカメラを向けました。日本にもありますが、巨大な三枚ばねは、まだ珍しい存在でした。
この国では見渡せばどこかに風力発電施設があるほど普及し、広々とした牧草地と風車が農村風景になっています。
風車の所有者は、個人であったり共同であったりで、性能さえ良ければ風速五~六メートルで採算が取れることから、農家の大切な収入源となっているようです。
「経済を忘れた道徳は寝言である」と言ったのは二宮尊徳でした。この国のエネルギー政策でも農民の経済が動き、活力が生まれています。
風力発電は温暖化の原因と見られる二酸化炭素を出しません。転ばぬ先の杖の国際的約束事、京都議定書にそっぽを向く米国、約束の六%減の達成が難しい日本に対してデンマークは二〇%減が政策目標です。産業界をおもんばかる米国と日本。国民の健康を考えるデンマーク、環境政策に違いが出るのは当然です。
六%減を諦めた日本と違って二〇%減を政策目標に掲げただけあって新エネルギー(バイオマス)への取り組みも盛んです。家畜の糞尿のバイオガス、木質バイオマス、麦わらバイオなど学ぶ事ばかりです。

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# by okasusumu | 2011-08-15 10:51 | 里山逍遥
2011年 08月 10日

保科正之

保科正之

高遠の町のあちこちに「保科正之で大河ドラマを」というビラが貼られている。NHKの歴史大河ドラマで扱ってもらい、高遠に賑わいを呼ぶ趣旨なのだろう。朝の連続テレビ小説「おひさま」効果で、安曇野、松本、奈良井宿に人が押し寄せている。テレビの力は大きい。
 ところでこの保科正之、会津で名君であったことは知られている。会津に転勤する前に高遠にいたらしい。というより、もともと高遠藩主に養育されていた。
 「養育されていた」のであるから実の父親がいる。実の父親は二代将軍徳川秀忠。江戸近郊に鷹狩りにでた秀忠が大工の娘、静に手を付けてできちゃった子である。秀忠の正妻は、今の大河ドラマの主人公、「江」であり、出産は城内ではできず、別のところ産み、武田信玄の次女、見性院に預けられた。当時の高遠藩主は武田氏の家臣、保科正光であった。
 秀忠は正妻「江」怖さに側妾のいない将軍で、親孝行でおとなしい妻を愛する優しい男のように思われているがこれはまったくの誤解で、性残忍酷薄な愚かな男であった。保科正之の兄弟と言えば、家光、忠長、継嗣問題で味噌を付けている。家光は子供の頃はむっつりとして陰性、ほとんど口を利かず、何を言われても白い目でじろりと見るだけで、およそ可愛げのない少年であった。弟の忠長の方は容姿端麗、目から鼻へ抜ける利発者で父母を大いに楽しませ、特に母親、江の寵愛は著しいものがあった。江のすべて言いなりの将軍のこと、将軍の地位を継ぐのは忠長に違いないと噂が流れた。
 この噂が少年を傷つけ当時12歳であった家光は自殺を図った。お福(春日局)が気が付き大事には到らなかった、馬鹿親には理由が分からない。お福が家康に直訴して家光が三代将軍を継ぐが、両親への不信感が消え去るわけがない。二代将軍とはその程度の将軍だった。
 実の父親は馬鹿親だが、保科正之は苦労して育った分だけ、人の心が理解できる政治家になっていた。兄の家光の死後その遺命により4代将軍家綱の補佐役として重きをなしている。知られているのが明暦の大火の後の庶民救済、防災対策、無駄の排除、経費節減など現在の課題とまるで変わらない難題に保科正之は立ち向かう。。
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# by okasusumu | 2011-08-10 11:59 | 長谷の自然と歴史
2011年 08月 09日

アルストロメリア

アルストロメリア
 山荘の下にある温室でこの花を栽培、道の駅、南アルプス村で一束300円で販売している。敏ちゃんのお土産はこれ、日持ちがよく安く、喜ばれるらしい。
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アストロメリア(ウイキペディア)
 単子葉植物の属の一つ。別名ユリズイセン属。

 分類体系により所属する科は異なり、新エングラー体系ではヒガンバナ科、クロンキスト体系ではユリ科、APG分類体系ではユリズイセン科(アルストロメリア科)に分類される。

 本属は南アメリカ原産で約50種が知られる。いずれもアンデス山脈の寒冷地に自生する。1753年、南米を旅行中だったカール・フォン・リンネ自らが種を採集した。リンネは親友のスウェーデンの男爵ヨーナス・アルステーマの名にちなんで花に名を残した。

4-7月にかけて花が咲く。花持ちが長い。
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# by okasusumu | 2011-08-09 11:45 | 山荘周辺の草花そして虫たち