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信州かくれ里 伊那山荘

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2011年 07月 14日

灰釉偏壷

偏壷
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# by okasusumu | 2011-07-14 14:26 | 山荘ギャラリー
2011年 07月 14日

工房に掲げられた看板

製作者の高井さんと友人のミノさんが来て看板を設置した。未だ周囲が整理されていないが、いずれ釜場の雰囲気がでてくることだろう。
工房に掲げられた看板_f0067937_9554891.jpg


# by okasusumu | 2011-07-14 09:57 | 黒河内窯
2011年 07月 14日

蚕玉大神・二十二夜塔

蚕玉大神 和泉原集落の入り口にある。「ああ野麦峠」の岡谷に近く、このあたりも養蚕は盛んだった。

二十二夜塔 蚕玉大神に並んでほかの石仏とともにある。ほとんどが文字碑である。相模の国では月待塔は二十三夜塔であり、、間違いかなと調べてみたところ地域により違いがあるようだ。

蚕玉大神・二十二夜塔_f0067937_9405469.jpg



かいこの神を「蚕玉(こだま)」と読む。その昔、養蚕が盛んだった地域では、蚕玉神、蚕神、蚕玉大神、蚕玉神社、などと書かれた文字碑が多く見られる。なお「蚕」の旧字体で「蠶」を使ったものが多い。
「玉」の代わりに「魂」を使ったものもある。
ほかに、養蚕神、蚕影(こかげ)などと書かれたものもある。

「神虫」と書いて、「かいこ」と読ませる異体字も、ときどき見かける。養蚕は、農村地方にとって、現金収入を得られる貴重な産業で、神の虫と呼ぶくらい大事にされていたことがうかがえる。

かいこの神として、女神が彫られたものもある。波に乗り、繭玉(まゆだま)を手にしていることが多く、この女神の名は「金色(こんじき)大天女」という説もある。
また、馬鳴菩薩(めみょうぼさつ)が蚕の神であるという説があり、馬に乗った石像も作られている。貧しい人々に衣服をさずけてくれる菩薩とされる。
 
「あヽ野麦峠」によれば、製糸産業によって得た外貨で、国は軍艦を買い、国力増強に努めた。野麦峠を越えてやってきた乙女たちの手がつむぎ出す、細い絹糸が、まさに国の命をつないでいたのである。



二十二夜塔
月待行事にかかわる石造遺物として、月待塔がある。信仰に対する供養を目的に造立されたもので、二十三夜塔を中心に各地で確認されている。これらを系統的に調査・分類することによって、造立された時代における信仰の実態をある程度推測することも可能である。ただし、現存する遺物は中世以降に集中しており、それ以前における有力な手がかりはほとんど見あたらない。
【月待板碑】
 中世に造立された板碑の一種で、月待供養を目的としたものです。関東地方に多く、薄い板状の石のほとんどが緑泥片岩を素材としているため青石塔婆とも呼ばれます。現存する最古の月待板碑は、1441(嘉吉元)年造立とされている〔『月待板碑の誕生』文0132〕。

【月待五輪塔】
 板碑とは別に、地輪部に「月待供養」の銘がある五輪塔がいくつか知られている。東京都西部のあきるの市には2基の月待五輪塔があり、そのうちの1基は1486(文明18)年の造立。この塔は空輪部と風輪部が欠損しており、現存する地・水・火輪部の高さは約45㌢となっている。中世の月待史料としては板碑よりも少なく、貴重な存在といえる。

【月待供養塔】
 通常、石造物に"〇〇夜(待)供養"とあるものを総称して月待供養塔としていうが、これらがすべて実際の月待信仰とかかわりがあったかどうかは明らかではない。月待板碑の後をうけて、主に近世から大正時代にかけて造立され、関東地方の利根川流域などでは、江戸時代初期と後期にそのピークがみられる。
 現在知られているものでは、十五夜、十六夜、十七夜、十八夜、十九夜、二十夜、二十一夜、二十二夜、二十三夜、二十六夜などの供養塔があり、地域によってかなり偏った分布を示しています。関東地方では、多摩川水系や相模川水系において二十三夜塔を主体とし、荒川水系では二十二夜塔が多くみられる。また、広大な流域をもつ利根川水系にあっては、山間部上流域の二十一夜塔、中流域の二十二夜塔と十九夜塔の明瞭な分布境界の存在、さらには下流域から茨城県、栃木県、福島県にいたる十九夜塔の広域的な分布など、それぞれに特徴をもった現況が認められる。なお、十九夜塔は、長野県や奈良県などにも分布しています。
 
 月待塔における主尊の選択は、ほとんどが仏教の教義に基づいており、十九夜と二十二夜では如意輪観音、
 二十三夜は勢至菩薩、そして二十六夜が愛染明王とほぼ決まっている。これらは、石造物としての形態の変化とともに、時代背景や石工の技量ともあいまって実にさまざまな像容を表現している。
 ただ、二十三夜塔においては主尊を刻さない文字だけの塔が多いことや、江戸で大流行をみせた二十六夜待に関しては、信仰の広がりに比べて遺されている二十六夜塔が極端に少ないなど、月待信仰の実態を解明するうえで重要な鍵を握っているとみられる。
 また、近世の石造物であっても、単に「月待供養」と刻まれた地蔵菩薩や月待講中が造立したさまざまな形態の石造物も認められる。二十三夜の供養を目的とした場合も、地蔵菩薩を主尊としたものや石灯籠、石幢、石祠などを含めて広義の月待塔に含める見方があり、神道系の「月読尊」にかかわる石塔も同様です。このように、月待塔の分類はさまざまな要素の組み合わせにより成立している側面がある。

【造立の実態】
 供養塔は、月待講中による造立が一般的です。十九夜塔や二十二夜塔などでは女人講の比率が高く、同一地区で数十年おきに造立された事例もみられます。近世後期以降の文字だけの銘文を刻した石塔では、その台石部分に講中の人名を刻んだものがあるが、供養塔の造立となれば、それ相応の金銭的負担が発生することになり、それぞれの時代において地域社会の一員として果たすべき責任が明確になっていたようである。
 【月待塔に表れた月】
 月待信仰を代表する二十三待では、旧暦二十三夜の月を拝することが第一の目的。各地の伝承も、概略ではあるすがそのような行事の実態をよく伝えています。二十三夜塔のなかには、月の姿を石に刻んだものがあり、そこから当時の人びとが二十三夜月に対して抱いていたイメージを推察できる。こうして比較してみますと、同じ事象に対する感覚には、相当の曖昧さがあることがわかる。
 旧暦二十三夜の月といっても、月齢はいつも同じというわけではない。実際には、下弦(半月)を境にして少し膨らんだ姿から逆に少し細くなった形まで変化がみられます。石塔に刻まれた月は、総体的に細い傾向を示しているが、傾きに対する誤解はともかくとしても、形に関しては二十六夜の月と混同した傾向が認められる。要するに、その地域の知識人や僧侶、造立にあたっての世話人や願主、あるいは実際に作業する石工などの複合的な感覚の産物といえる。
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# by okasusumu | 2011-07-14 09:41 | 山荘周辺の文化財
2011年 07月 14日

庚申塔

 庚申 和泉原集落の入り口にある。どこの集落の入り口にあるが高遠石工の作品なのだろう路傍の石仏とも言い難いほどみな大きい。それほど古いものではないが、重機がなかった頃、こんな石をどのようにして運んだのか不思議でならない。村人総出で設置したのだろうか。
 石があって、石工が育ったと考えるのが自然だが、石はどこにあるのか。
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庚申塔(こうしんとう)(ウィキペディア)
庚申塚(こうしんづか)ともいい、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のこと。庚申講を3年18回続けた記念に建立されることが多い。塚の上に石塔を建てることから庚申塚、塔の建立に際して供養を伴ったことから庚申供養塔とも呼ばれる。

庚申講(庚申待ち)とは、人間の体内にいるという三尸虫という虫が、寝ている間に天帝にその人間の悪事を報告しに行くのを防ぐため、庚申の日に夜通し眠らないで天帝や猿田彦や青面金剛を祀って宴会などをする風習である。

庚申塔の石形や彫られる神像、文字などはさまざまであるが、申は干支で猿に例えられるから、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿を彫り、村の名前や庚申講員の氏名を記したものが多い。同様の理由で庚申の祭神が神道では猿田彦神とされ、猿田彦神が彫られることもある。また、猿田彦神は道祖神とも信仰されるため、庚申信仰が道祖神信仰とも結びつくこととなった。さらに仏教では、庚申の本尊は青面金剛とされるため、青面金剛が彫られることもある。

庚申塔には街道沿いに置かれ、塔に道標を彫り付けられたものも多い。これは道祖神など他の路傍の石仏にはあまりみられない機能であり、庚申塔の特色とされている。

庚申塔は全国的な分布が確認されているが、地域によって建立数に差が見られる。特に旧相模国を中心とした地域では数多くの庚申塔が建立された。なお相模国には日本で初めて三猿が彫られた庚申塔(茅ヶ崎市輪光寺、市重要文化財)や青面金剛が彫られた日本最古の庚申塔などが残っている。

歴史 [編集]庚申塔の建立が広く行われるようになるのは、江戸時代初期(寛永期以降)頃からである。以降、近世を通して多数の庚申塔が建てられた。当初は三猿像や青面金剛像を彫り付けたものが大多数であったが、しだいに「庚申塔」あるいは「庚申尊天」と文字のみ彫り付ける形式が増加する。

明治時代になると、政府は庚申信仰を迷信と位置付けて街道筋に置かれたものを中心にその撤去を進めた。さらに高度経済成長期以降に行われた街道の拡張整備工事によって残存した庚申塔のほとんどが撤去や移転されることになった。

現在、残存する庚申塔の多くは寺社の境内や私有地に移転されたものや、もともと交通量の少ない街道脇に置かれていたため開発による破壊を免れたものである。田舎町へ行くと、今でも道の交差している箇所や村落の入り口などに、「庚申尊天」と書かれた石柱を全国で見ることができる。

道祖神(どうそじん、どうそしん(ウイキペディア)
路傍の神である。集落の境や村の中心、 村内と村外の境界や道の辻、三叉路などに主に石碑や石像の形態で祀られる神で、 芭蕉の「奥の細道」では旅に誘う神様として冒頭に登場する。 村の守り神、子孫繁栄、近世では旅や交通安全の神として信仰されている。 古い時代のものは男女一対を象徴するものになっている。餅つき(男女の性交を象徴する)などにもその痕跡が残る。

概要
 ]全国的に広い分布をしているが、出雲神話の故郷である島根県には少ない。甲信越地方や関東地方に多い。平安時代にはすでに「道祖」という言葉が書物に出てきているが、松尾芭蕉の『奥の細道』の序文で書かれることで有名になる。しかし、芭蕉自身は道祖神のルーツには、何ら興味を示してはいない。

 日本に伝来してからは、初期は百太夫信仰や陰陽石信仰となり、民間信仰の神である岐の神と習合した。さらに、岐の神と同神とされる猿田彦神と、その妻といわれる天宇受売命と男女一対の形で習合したりもし、神仏混合で、地蔵信仰とも習合したりしている。このため道祖神は、古代から近世に至るまで時代によって様々な信仰、宗教と融合する。

 道祖神の「祖」の漢字のつくりの「且」は、甲骨文字、金文体上では男根を表している。これに呼応するように、文字型道祖神では「道」の文字が女性器の形をしているものもある。

各地で様々な呼び名が存在する。道陸神、賽の神、障の神、幸の神(さいのかみ、さえのかみ)、タムケノカミなど。秋田県湯沢市付近では仁王さん(におうさん)の名で呼ばれる。

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# by okasusumu | 2011-07-14 08:56 | 山荘周辺の文化財
2011年 07月 13日

オオムラサキ(蝶)

家の中に国蝶オオムラサキが入って来た。
何度も見ていたがカメラに収めたのは初めて。準絶滅危惧(NT)に指定されているが、この辺りは多く観察できる近くにエノキがあるのかもしれない。窓ガラスに止まったところ、ぼんやり見えるのが戸倉山。
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オオムラサキは、チョウ目(鱗翅目)・タテハチョウ科に分類されるチョウの一種。日本の国蝶。学名はSasakia charonda(Hewitson, 1863)、中国名は「大紫蛺蝶」。

概要 日本に分布する広義のタテハチョウ科の中では最大級の種類。生態や幼虫、蛹の形態は同じコムラサキ亜科のゴマダラチョウによく似る。

成虫は前翅長50–55mmほどで、オスの翅の表面は光沢のある青紫色で美しい。メスはオスより一回り大きいが翅に青紫色の光沢はなく、こげ茶色をしている。

北海道から九州まで日本各地に分布し、日本以外にも朝鮮半島・中国・台湾北部・ベトナム北部に分布している。国内では生息環境が限られ、適度に管理された、やや規模の大きな雑木林を好んで生息する傾向が強い。かつては東京都区内の雑木林でも見られた。都市近郊では絶滅の危機に瀕する産地もある一方、山梨県のように今でも広域に多産する地域がある。

成虫は年に1回だけ6–7月に発生し、8月にも生き残った成虫を見かける。花の蜜は吸わず、クヌギやコナラといった広葉樹の樹液などに集まるが、その生態は勇ましく、スズメバチなど他の昆虫を羽で蹴散らしながら樹液を吸う姿を良く見かける。また、飛翔能力が高く、近くに居る時にはその音が聞こえる程、鳥の様に力強くはばたいて、あるいは滑空しながら雄大に飛ぶ。縄張り飛翔は午後に行われることが多く、西日を浴びて高い樹冠を活発に飛び回る姿を見かける。

幼虫の食樹はエノキやエゾエノキ。卵から孵った幼虫は、夏から秋にかけてエノキの葉を食べて成長する。冬は地面に降りて、食樹の根際や空洞内に溜まった落ち葉の中で越冬する。春に休眠から覚めると再び食樹に登って葉を食い、更に成長を続け、蛹になる。

日本国内での地理的変異はやや顕著。北海道から東北地方の個体は翅表の明色斑や裏面が黄色く、小型。西日本各地の個体は一般に大型で、翅表明色斑が白色に近く、かつ裏面が淡い緑色の個体も多い。九州産は翅表明色斑が縮小し、一見して黒っぽい印象を与える。日本国外では、裏面に濃色の斑紋が出現した型が多く見られ、また、雲南省からベトナムにかけての個体群は明色斑が非常に発達する。

国蝶であること [編集]国蝶とは、法律や条例で規定されたものではない(猪又, 2008)。

国蝶をどのように選ぶべきか、あるいはどの種類にすべきか、ということについては、古く1933年頃より片山胖、結城次郎、中原和郎などによりZephyrusという同好会誌上で論議されていた。そして、当時からオオムラサキはその候補種だった。実際には1957年になって日本昆虫学会で国蝶として選ばれた経緯があり、「日本における代表的な大型美麗種」という観点での選抜意見が強く働いたと推定される。

しかし、本種は上述したようにベトナム北部から中国東北地方にまで及ぶ東アジアの広域分布種であり、日本の自然環境を代表する種ではない。したがって、本種が最初に発見されたのが日本であること(種の基産地は神奈川県)、ならびに属名のSasakiaが佐々木忠次郎に献名されたことを考えたとしても、現在では本種が「国蝶」であることを強調し、あるいは「国蝶」であるゆえに他のチョウとは何か異なった重要性や希少性があるような論議にはあまり意味がないと考えられる。

なお、国蝶の候補種としては、ミカドアゲハ、ギフチョウ、アゲハチョウといった蝶も俎上に登った。たとえば結城(1935)はオオムラサキに対抗してアゲハチョウを推す理由を詳細に記述している。

保護 [編集]本種は環境省により準絶滅危惧(NT)に指定されてはいるものの、都市近郊で雑木林が寸断されている場所を除けば、減少あるいは絶滅の心配はあまりない。たとえば、今でも東京近郊の八王子市や町田市、あきる野市、横浜市緑区などで冬季に越冬幼虫を探せば難なく発見できる。成虫が一般に珍しいと思われがちなのは、あまり人目につかないところを飛翔する生態に原因がある。なお、多数の成虫が飛ぶ地域を観察すれば理解されるように、クヌギの古木から発酵した樹液が出ていたり、道路に獣糞の落ちているような雑木林を保全することが重要なのは言うまでもなく、そのためには適度な伐採と再生や下草刈りなどが重要である。逆に手入れが行き届きすぎて林床の落ち葉をすっかり清掃してしまう公園等では、いくらクヌギやエノキが豊富でも生息できない。また、より美麗であるオス成虫は、小中学生の夏休みには既に最盛期を過ぎていわゆる「ボロ」の個体ばかりであるため、遭遇率が低い。

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# by okasusumu | 2011-07-13 21:30 | 山荘周辺の草花そして虫たち