信州かくれ里 伊那山荘

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2011年 06月 08日

棚田の復元(5)

小さな焼畑体験
 尾瀬ヶ原巨大ダム計画に反対し、尾瀬の自然を守った人ととして知られる武田久吉理学博士は、丹沢にも、足跡を多く残しています。丹沢が世に出た最初の記録 とされるのが明治三十八年の「山岳」第一巻に掲載された氏の山行記録「塔の岳」でした。一行は、JR御殿場線の山北駅から夜通し歩いて登り口の玄倉にたど り着いています。焼き畑を語る佐藤浪子さん宅の近くは深夜の通過でした。およそ百年前の事、今では想像もつかない、とんでもないコースです。
 さて、佐藤さんの焼き畑の体験談です。
「薪や炭になる木を切り出して、笹も刈って丸坊主にして火を付けたものだ。斜面には薪にもならないような木がごろごろしていた。いつも夏の暑い盛り、ある時、 養子に来たばかりの男が、男衆が段取りの打ち合わせ中に火を付けてしまった。働き者だと思われたかったのかもしれない。ここでは、火は上から付けていた。 上から付けると、じわじわ燃えるのだが、下に火を付けると燃え上がって大変なことになる。上にいた男衆は、命からがらの目に遭ってしまった。火入れは簡単なことではない、山の一部分だけだから、他に移らないようにしなければならない。
 火は地を這うから境に溝を掘り、そして熟練者の指図に従って火を付ける。下から火を付けると炎には驚くが、表面だけだ。あの養子は知ったかぶりをしたばっかりに、恥をさらして、しばらく小さくなっていた。半世紀過ぎても話の種だ」
 焼畑を終えると直ぐにソバをまき、ヒエやアワを栽培したようです。「五年もすると、切り株から萌芽したコナラが生長し始め、また薪山に戻っていく」と佐藤さんは山の再生を強調します。森林破壊ではないと。
  私たちの小さな焼畑も、佐藤さんの話の養子さんのような慌て者もおりましたが、その後は、地を這う火を防ぐために溝を掘り、斜面では上から火をつけました。思っても 見なかった小さな「焼畑」体験です。誰の顔にも黒い炭がこびりつき、その炭を汗が筋状に流し落としています。終ったあとのビールのうまいこと、銘柄名は 忘れましたが絶品でした。

 典型的な自然農法である焼畑を学んでしまいました。山に火を入れるのですから誤解をされがちですが、日本の焼畑 は持続的農業、林業を考える一つの貴重なモデルのように思えます。東南アジアで行われている、油やし農園を作るための、あるいはアマゾンの放牧地を作るた めの森林破壊と同列に置かれてしまっては先人がかわいそうです。

by okasusumu | 2011-06-08 10:16 | 里山逍遥


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