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信州かくれ里 伊那山荘

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2013年 05月 19日

伊那の木地師の墓

伊那谷の木地師の墓
                        竹入弘元

信濃は山国であるから、山の資源を活用した産業が営まれる。木地師の活動が信濃の一帯で見られたのはきわめて自然である。南信濃の伊那について見ると、木地師が山に寵って木を切り、器を作ったのはいつからか、はっきりしないが、多分近世初期ころからで、氏子狩資料によって裏付けられるのは正徳・宝永年間、十八世紀初期以後である。上伊那では駒ヶ根市中沢の奥、四徳、高遠町長谷村の奥、辰野町横川の奥、その他限られた地域に過ぎない。下伊那地方はずっと広範囲にわたる。根羽村や遠山地方のような愛知県や静岡県につながる山岳地帯が広がっていて、木地師の活動の場に恵まれていたといえよう。ここでは、幕末・明治に伊那谷で活動した木地師について、墓碑を通して述べてみたいと思う。

上伊那地区の墓碑

上伊那郡辰野町横川
 辰野町大字横川の奥、三級の滝手前、十二洞入口の路傍に木地師の墓がある。ここに至るには、JR中央線の信濃川島駅から横川川に沿って、弧を描く横川谷を遡ること約一一キロ、人家がとだえてなおしばらく上った山の中である。木地師の墓七基八入と名号碑一基とがIカ所に並んでいる。この一群は、昭和四十六年二月十七日付で、町文化財に指定されている。これを没年(あるいは建立年)順に列挙する。
 A 別山智伝信女位 小椋竜八妻 文化七庚午(一八一〇)八月十七日
 B 少屋妙林信女位 吉右衛門母 文化七庚午九月七日
 C (菊花紋)黄林恵菊信女位 小椋和平娘 文化七庚午九月二十五日
 D 真性妙空信女位 江州出木地師小椋藤右衛門妻 文化八辛未二力初六日
 E (菊花紋)寂室自照信女位 江州出木地師小椋太平妻 文化九中歳九月八日
 F (菊花紋)無外是宗信士位 五郎左衛門父 俗名大蔵源六 文化十三子十一月十二日
       桃林童女 五郎左衛門娘 文化十四丑年三月十六日
 G 、菊化紋。宝夙妙珍~々位 へ無銘)

H 南無阿弥陀仏(名号碑) 施主江州出木地師 天保二辛卯(一八三一)五月
 これらの墓石を見て感じることを次に記す。
男子はFの五郎左衛門父、俗名大蔵源六ただ一人で、他の七人はすべて女子である。なぜ女子ばかりなのか。
期間は文化七年(一八一〇)から文化十四年まで八年間だけである。名号碑建立の天保二年まででも僅か二十年にすぎない。姓はACDEの四名が小椋で、Fの二名が大蔵であることが知られる。江州出木地師であることがDE二基に書かれている。文化七年に三名もなくなっているのには何か原因があろう。たとえば流行病とか。
ところで、横川の門前地区には瑞光寺という臨済宗の古い寺がある。数度の火災で古い過去帳はないが、享保年間からのものは整理されている。そしてこの谷の奥に住んで木地を作っていた木地師たちは、その死亡に当たって当寺の世話になっていたと見えて過去帳に多数記載されている。こういうことは木地師としては珍しい事例ではあるまいか。そこで、過去帳に基づいてこの土地で死亡している木地師本人およびその家族の年次別、男女別一覧表を作ってみると、次のようである(表―)。
 これによると、江戸時代中後期の享保十六年から文政十三年に至る二十九年間(元文四年から文化六年まで七十一年問空白)にこの地で五十一人の死亡が記録されている。これから推測しても相当多くの木地師たちが住んでいたと思われる。
 また死亡者数を比較すると、過去帳より墓碑の方が毀かに少ないことも知られる。文化十四年には、過去帳の四人に対し、墓碑は一人のみである。そのへんの比較のため、表2を作ってみた。ただし鵬吽はひへ化以前と以後の長い期聞のものが欠けている。ないということは造られなかったのか、それとも幾基かは造られたけれど、ここに集めて
ないということか、不明であるが、いずれにしても実際の死亡数と墓碑の数とでは、墓碑の方が逼かに少ないことは確かで、このことから、今日私たちの目に触れるこ
とのできる墓碑の背景に非常に大勢の木地師が存在したと考えてよいと思われる。
 ケヤキ・トチなどの木を削って、おわん・お盆などの木地を作った木地師が横川川奥地にいつ頃から住んだかは必ずしもはっきりしないが、江戸時代中期には長谷村の奥方面
から移り住んだことが確実で、文化・文政頃随分賑ったが、天保二年(一八三一)に至ると原木の減少や悪病の流行などが原因で、この地をひき払って他に移った。その際、横川川のあちこちの洞にあった墓碑を集め、名号碑を建立して供養した。移った先は中田切川の奥地と思われるという(参考・宮下慶正著『信濃の木地師』。以下この本に負うところが多い)。

伊那市西町、長桂寺墓地
 伊那市西町の長桂寺裏の墓地のうち、小椋一美家墓地に菊花紋を伴う木地師の墓碑
一基と十三仏の碑がある。
 ― (菊花紋陰刻)徳山浄隣居士 慶応三
  年七月二叶日 小椋武左衛門2 十三仏 文化十哭酉三月 木地師佐平
 一美氏は今東京に住んでいるが、この地に小椋家先祖代々之碑を立てて父祖の霊をまつり、前の住所から墓碑と十三仏の碑を、先祖のものだからと、昭和五十六年に移した。一美氏の祖父の記内は遠山(下伊那郡I村・南信濃村のある地域)に住んでいた。十三仏の碑は遠山の上村奥の地蔵峠ふもとにあって、十三仏はそこの地名になっていた。明治初年に遠山から下伊那郡大鹿村に移り、さらに大鹿村のうちの鹿塩に移った。その子喜市はまた鹿塩から上伊那郡長谷村栗沢に移っている。

駒ヶ根市北原墓地
 駒ヶ根市北原墓地東南隅、小松氏墓地にある。高さ四二セソチの小さなもの。
 前面(菊花紋陰刻)大岳良寿居士
          大道貞寿大姉
 右 木地職 大蔵定平 明治九年五月二十二日
 大蔵定平は長谷村栗沢にいた木地師で天保三年(一八三二)頃いったん小県郡大門山に移り、
天保十年代に粟沢の北の女沢にきてまた栗沢に戻った。その後いつの時か駒ヶ根市中沢の奥、桃
平辺へ移り、そして小松と改姓したとみえる。同家は今駒ヶ根市に住んでおられる。昭和三十六年のいわゆる三六災害で、居住不能となり、
転居したと思われる。

高遠町勝間、慨勝寺西裏山
 高遠町勝間から人家のない山道を遥々と登って行く。竜勝寺に着いたら左手にさらに登る。寺から三〇メートルほどで墓地になる。北村家の墓地(ここには郷土史家北村勝雄氏が眠っている)に続いて、木地師の墓が立っている。その奥には当寺歴代の住職の墓碑が四十一基も並んでいる。木地師の墓碑として明確なものは三基で、十数基の墓碑が三列に並んでいるうちの最後列。キメの細かい良質な石を用いてある。向かって右から掲げる。
 1 (桐紋陽刻)清岳浄玄居士 文化十四r丑年(一八一七)二月十二日
  観山智音大姉 嘉永元戊申年(一八四八)五月十七日
 2 (菊花紋陽刻)隣山遊徳居士 文化元甲子年(一八〇四)十二月四日
  先祖代々諸精霊
  鏡岳玄光大姉 天保三壬辰年(一八三二)五月十七日
 3 (桐紋陽刻)禅東携関居士
  禅室妙心大姉 文化十四丁丑年(一八一七)八月九日
 次の一基は紋がなく、木地師墓かどうか明確でないが、大蔵の姓を刻んであり、その可能性が濃い。
 4 (紋なし)性道儀明居士 元治元甲子年(一八六四)四月四日 縫右衛門
   大蔵重左衛門之立
これらの墓碑は、その辺に散らばっていたものを、何年か前に集めたという。どういう系続か、子孫が誰かは不明である。
竜勝寺山の木地師に蛭谷・君ヶ畑から氏子狩魂に人つたのは天保の末・弘化の初年で、それによってこの地に木地師がいたことが証明される。しかしこれらの墓碑により、そ
れより前の文化年間以前から木地師がいたことが明らかになる。上伊那では、この他、長谷村黒河内、大揚寺裏山の大蔵家墓地に、木地師の墓碑が四基ある。大蔵家の兼市氏が黒川地籍を去る時に持って出た同家の古い墓碑だという。

# by okasusumu | 2013-05-19 14:58 | 長谷の自然と歴史
2013年 05月 18日

ちょっといい話

ちょっといい話
見たり聞いたりした良い話を書き止め、真似して実行した里の知恵集。
「健康」「食」「医」などに分類してみた。

「健 康」

乾燥ヨモギの入浴剤  
20センチ以上に育ったヨモギの地上部全部を採取、太い茎を除いてカラカラになるまで干す  真夏の天気の良い日に1回干しなおすと長持ちする

乾燥したヨモギを2-3センチに刻む(同じように乾燥したドクダミを混ぜてもよい)
②乾燥したヨモギ5グラムほどに水1ℓを鍋に入れに立って5分で止める
③余熱をとり濾したり絞り出して汁をとる
④汁を冷蔵庫に保管して風呂上り乾燥してかゆいところにつけるヨモギローション

もしくは乾燥したヨモギを10から15グラム布でくるんで湯船に

スギナ・ヨモギ湯  芯からポカポカ アトピーも皮膚病も快癒
 スギナヨモギの乾燥葉それぞれ10gずつ水から沸かして沸騰したら弱火で10分煎じ汁を入れる。
ビワの葉を入れることも。ビワの葉は肉厚の葉を使い、表裏をたわしでこすり汚れを落とす。
ビワの葉を入れて三種混合、ドクダミの葉を入れて4種混合

スギナ茶   骨粗祖しょう対策
洗って干し大きめのティバッグに詰め、沸騰した湯で2-3分にだしてスギナ茶に。これを飲み続け骨粗しょう症対策。

ヨモギジュース  骨粗祖しょう対策
材料:ヨモギ茎ごと4本  バナナ2/3本 牛乳コップ2杯
           はちみつ その他好みの野菜
ツクシの油炒め  「花粉症」
ツクシを強火で油炒めにしてしこたま食べる。重症の花粉症が奇跡のように治った

すぎなティー   利尿作用がもたらす
水洗いしたスギナに湯を注ぐ。フレッシュな味わい
しっかり乾燥するのがコツ




にんにくのしょうゆ漬け
ニンニク1片 エンドウ200g しょうが4枚 昆布10㎝角 醤油大さじ4 酒小さじ4
 ニンニク ショウガはみじん切り 昆布は細切り 
ビニール袋の中で材料を混ぜる。軽くもんで冷蔵庫 30分ほどでちょうどいい味に

タケノコの常温保存  
①タケノコを水から煮る。沸騰して20分ほどで粗熱をとり、②糠床を作り(米ぬか、塩、お湯を同量ずつ鍋に入れ火にかけ、ふつふつしてきたら30分間練り混ぜ、粗熱をとる)③漬物と同じ要領で層にして保存④使うときに塩抜きして味付けをする。

ゆずの新芽のテンプラ 
二本ずつ衣で包んで揚げる。

つくしの粕漬 
袴をとる②80度のお湯に塩を入れ30秒さっとゆでる。③粕漬の漬床に水、みりん、焼酎、砂糖などを加え調味液にする④ゆでたつくしを調味液につける。⑤そのまま冷凍すると調味液がしみやすくなりたった1週間でつかる 

タンポポのてんぷら 
①水洗いし、表面に軽く小麦粉をふりかけ、薄めの衣にさっとくぐらせ油で揚げる。つんだ花はすぐに萎れるのですぐに天ぷらにするのがコツ。

タンポポの甘酢漬け 
花がしぼんでしまったら甘酢漬け

タンポポの根のマヨネーズ焼き 根をよく洗い、ささがきにする(あく抜きはしない)
 ②油で軽く炒め好みの味付けをする。③ズッキーニを1センチの厚さに切り、ズッキーニの上に炒めた根を乗せマヨネーズをかけてオーブンで5分くらい焼く

タンポポの花の焼酎づけ  
①乾いたところに咲いている花を摘む。②広口瓶に、洗い水けをとったタンポポ300グラム、焼酎1.8リットルを入れ、角砂糖700グラムほど加えて仕込む。③日の当たらないところで6か月熟成して完成。花を取り出す。

イタドリジュース 
①皮のまま刻みミキサーにかけ②搾り袋に入れ絞る③はじめは緑、時間がたつとピンク、このピンク色の液体をゼリーに使う。

イタドリゼリー 
①水に寒天を入れよく混ぜる②火にかけ寒天を溶かす③沸騰したら砂糖とイタドリジュースをいれて冷やして固める。水とイタドリジュースは2対8砂糖は好み。熱を加えすぎると薬効がなくなる

タラの芽の味噌漬け 
①タラの芽をたっぷりの水でゆでる②水切りして5センチぐらいの束ごとに輪ゴムで止める。③1束に対して味噌50グラムに砂糖とみりん少々を加えてよく塗り込む。④タッパーに入れて冷蔵庫に2日間、取り出し手でなめて甘ければ味噌を増やし、塩気が強ければ砂糖を増す。⑤さらに二日間置いて完成。


スギナ天ぷら
 衣をつけて揚げるだけ。スギナの香りが閉じ込められる。

スギナの乾燥粉末
①開いた直後に収穫、天日干し② 表面の水分が飛んだら陰干し 風通しが良ければ2日③おおざっおあに砕く④使用時に茶こしで濾す。湿気を含んだ場合は鍋の余熱で乾炒り
②スギナ大福 沸騰した湯600㏄砂糖230gスギナ粉末大さじ3 もち粉500gを加え10分ほど練る。 あんこで包めばスギナ大福
  
オクラのテンプラ 
オクラ5~10本 卵1個 小麦粉大さじ5杯 塩.こしょう少々を一度にミキサーにかけ、それを スプーンで一口分ずつすくい、油でで揚げると軟らかいオクラのテンプラの出来上がり。

ポリ袋調理
❶袋に材料と調味料を入れる❷袋の空気を抜く(ボウルなどに水を入れ、袋を鎮めて水圧で空気を抜き、口をねじり、上の方で縛る。❸鍋に入れる。袋が破れるのを避けるためなべ底に皿を敷き。❹湯が沸騰したらとろ火。調理温度は90度台。蓋はしなくても良い。浮いてもそのままで良い。

発酵梅
 抗酸化バケツを使用❶青梅(1キロ)と砂糖を(1キロ)水6ℓを入れて蓋をする。❷毎日かき混ぜる❸3~7日で完成。梅をざるで濾し、ジュースはペットボトルに移し、冷蔵庫。
普通の容器で作る場合は水を入れない。飲むときに薄める。

肥料袋のリュック  
口が開いている方をひもで縛り、ひもの両端を下の穴に括り付ける。

シリコンスプレー  
どこにもひとかけで機械はいつもピカピカ

促成ヨモギのつくり方 
春先ヨモギの生える斜面をバーナーで焼く。ヨモギは地下茎で植えるので邪魔な雑草を取り除くことができる。

知 恵

ドクダミで冷蔵庫の消臭
ドクダミの葉と軸を生のまま網に入れて冷蔵庫の中に置くだけ。ドクダミのきついにおいが冷蔵庫の臭いを中和する。ドクダミの臭いが食べ物に移ることはない。

# by okasusumu | 2013-05-18 16:12 | ちょっといい話
2013年 05月 18日

高遠石工の源流

高遠石工その源流と旅稼ぎ          曽根原俊吉楼 
  
信州の石工について、その古い記録によると、武烈天皇の三年(五〇一)に信州
の石工が、築城のため大和に招かれている。古墳時代後期のことである。
   -私はかつて小著『貞治の石仏』にこんなことをしるした。

信州は日本の屋根である。重畳として連なる高い山脈と、その深い渓谷はいつ
も良質の石材を豊富に提供している。諏訪の輝石安山岩、駒ヶ根の閃緑岩、高遠
の輝緑岩、秦阜の花肖岩、更科の流紋岩、青木湖畔の石英閃長岩など、信州から産
出する石材を数えあげたらきりがない。 このように石材の宝庫である信州にお
いて、たくさんの石工が生まれたのは当然であろう。江戸時代、ここに深く根を
下ろした高遠石工が全国の各地に活躍することになったのも、そこには古墳時代
からの石工の伝統があったからである。 さて信州の石工が古墳時代の築城技術
の上に発展したとはいえ、これを直ちに高遠石工の源流と結びつけるにはやや難
点がないとはいえない。そこでとりあげてみたいのは『新編武蔵風土記稿』であ
る。これによると往古伊那郡より多くの石工が西多摩郡五日市町伊奈に移住した
ことが記録されている。
「伊奈村は郡の中ほどにありて秋留郷にす。村名の起所を尋ぬるに、往古信濃
伊奈郡より石工多く移り住みて、専ら業を広くせし故に村名をなせり。天正十八
年御入国の後江戸城石垣等の御用をつとむと云へり。されど今はその職を業とす
るものなし、江戸日本橋より行程十二里家数二百軒」とある。
 越後の石工大塚太良兵衛は、高遠石工の流れを汲む石工であるが、かれが転書
した『仏像秘法』によると、鎌倉時代すでに高遠石工が存在していることが書きと
められている。
 「石細工始ハ平家アツモリ墓印也。其後信州高遠ヨリトモ公御城イタシテヨリ東
33ヶ国ヲ御免成3700人門出也。ノキ三尺ハナレテ川一二尺ハナレテ石トル
皆ゴメンーーー」
 また石臼の研究家として知られている三輪茂雄氏は、石臼に関連して木曽義仲
の従者西仏坊の足どりを追っていくうちに、江州曲谷で西仏坊が信州より石工を
招いて石臼の製造をはじめたという史実を発見している。いまでも曲谷を訪ねる
と、村中のいたるところにごろごろと石臼が転がっているという。こんなことか
らいっても、鎌倉時代に高遠の石工が他国へ進出していたことがうなずけられる
と思う。
 郷土史家宮下一郎氏は『信濃路五号』において、高遠石工の源流は予想以上に
古い時代、すなわち中世初期以来としている。その根拠として、南北朝時代上伊
那郡大河原に建立された宗良親王の墓標である宝饉印塔をはじめ、東部地方にの
こされている同時代のいくつかの宝医印塔は何れも高遠石工の作であることをあ
げている。
 このようにみてくると、高遠石工の源流は遠く南北朝から鎌倉時代まで遡るこ
とができると思う。

そこで高遠石工の旅稼ぎを考える場合、通説では彼らが全国各地にその足跡を残
すようになったのは江戸時代に入ってからのことと言われている。特に元禄
以降は高遠藩の政策もあって旅稼ぎに出る者が急速に増えたと言える。
この点をさらに詳しく説明するならば元禄四年(1691年)3万3千石で
高遠藩主となった内藤氏は前藩主鳥居氏時代の所領6300余石を幕府領と
して引き上げられたため藩財政は極度に困窮した。これを救済する方策とし
て耕地面積の少ない山間部の農民に対しては、石工として旅稼ぎに出ること
を奨励した。
各郷に「石切目付」をおき、きびしく運上(税金)の取り立てを行なったのもそ
のためである。 また宗門帳の他に『他国旅稼御改帳』
『石切人別御改帳』などを作って代官に差し出していた。これらの内容については、
村によって多少の相違はあるが、概ね次のようなことが骨子となっている。
 1、旅稼ぎに出る者については、五人
   組や請人が責任をもって年貢を納
   め、また役勤めをする。
 2 稼ぎ先では、法度に反することは
   させない。
 3 年内に帰らぬ者あった場合は、そ
行方を詮議して届ける。
 4 田畑の耕作時には、家に帰って作
付けすることを妻子に申し付ける。
 5 秋不作であっても年貢を引くこと
を願い出ない。
これらの実行については当人はもちろん五人組や請け人に連帯責任を
負わせていることがよくわかる。 石工の旅稼ぎに直接かかわりはないが、
高遠藩の過酷な政策と関連して知られている事件に、文政五年(一八二二)に起き
た「興津騒動」がある。 男子十五歳以上六十歳までのものは一
口‐に草桂二足宛、女子は毎月一軒より木綿一反を上納せよ、というもので、これ
に反対して民衆たちが蜂起したのがこの騒動である。これ一つみても石工への圧
制が思いやられるであろう。 文政八年(一八二五)における高遠藩の
『お取箇外物帖』による諸税は下表のとおりであるが、その内石工の運上が他の職
種に比べていかに大きな財源になっていたか、山間部の大野谷、藤沢郷などの実
際をみてほしい。
 石工の旅稼ぎの行先は長野県内が最も多く、岐阜、愛知、山梨、神奈川、群馬
埼玉、栃木、福島、山形等中部地方から関東、東北地方の各地に及んでいる。
 高遠領のうちで一番出稼ぎの多い入野谷、藤沢の両郷における文久二年(一八
六二)の出稼ぎ先と人数は次の通りである。
  信州 129人  飛州  1人
  上州  45人  甲州 97人
  武州  10人  駿州  6人
  濃州  31人  相州 14人
  三州   2人  奥州  2人
          計  337人
     (入野谷郷石切目付平蔵記録

先にも触れたが三輪茂雄氏の石臼の研究からしても高遠地方に見られる反り三角
の手かけのある石臼は高遠石工の作として同形式のものが北信、新潟および会津
地方にあることが確認されている。
 しかし三輪氏は、反り一二角の手かけ穴のある石臼は、これを即高遠石工の作と
決めつけることはできない、筆者の仮定にすぎないとしているが、高遠石工の行
動範囲を追っている私にとっては、たとえそれが仮定にすぎないとしても興味は
尽きない。
 石工の行動範囲の広い例としては、守屋貞治〔明和二年(一七六五)~天保一二年
二八一二二)〕の足跡がある。貞治は藤沢郷塩供村出身の名工で、在世中一三二六林の
石仏を造立したことで知られている。その作品の分布をみると、長野県内では地
元高遠をはじめ、駒ヶ根、宮田、箕輪、木曽、諏訪、松本など、県外では西は岐
阜、愛知、一二重、兵庫、山口、東は群馬、山梨、埼玉、東京、神奈川の各都県にま
たがっている。
 かれには『石仏菩薩細工』という作品の記録がのこされていたため、その作品
の大部分は発見されているが、一部まだ未発見のものがある。いまとちかって交
通不便であった時代において、どうしてこのような広範囲にわたる活動ができた
のであろうか。もちろん貞治の彫技が優れていたことはいうまでもないが、決定
的な理由をあげるならば、それは諏訪温泉寺の願王和尚の導きがあったからであ
る。当時願王和尚は地蔵信仰をひろめるため全国の各地を行脚しているが、その
先々において、実弟実門の仏画と共に貞治の地蔵菩薩像の造立を積極的に薦めて
いる。貞治仏に願王和尚の讃や偶の刻銘がみられるのもそのためである。

名工貞治・吉弥とその周辺

高遠石工が他国に進出して活躍したことについて、改めてここに説明を要しな
いと思うが、その中でも特筆すべきものについて述べてみたい。
 守屋貞治については、さきにもしるした通り、生涯において三三六鉢の石仏を
造立したその優れた彫技は巨匠の名に恥じない。
 かれの作品には建福寺の願王地蔵菩薩像、勝間大橋の不動明王像、光前寺の一二
陀羅尼塔弁四天王、温泉寺の三十三ヶ所観音像など繊細優美な作品が多い。 。
 貞治の弟子渋谷藤兵衛は、貞治らと共に甲州海岸寺の百観音像を刻んでいるが、
かれの代表作としては美篤洞泉寺の宝箇印塔をあげなければなるまい。また箕輪
町地蔵堂の六地蔵菩薩像を造った清水六左衛門、長野市往生寺の地蔵菩薩像を造
った小笠原政平、大町市大黒町の大黒天像を造った伊藤徳十、同留十なども知ら
れた石工である。
 異端の石工として最近注目されているのは藤森吉弥で、上伊那郡木下の出身で
ある。かれの作品は長野県内では、松本において一二鉢の道祖神をのこしているに
過ぎないが、埼玉県秩父郡小鹿野町の観音山に、全長3.08m台石を入れると4m余
の巨大なる仁王像を造立している。高遠石工の作品で県の文化財に指定されている
のはこの一鉢だけである。
 当時秩父地方においては、吉弥の腕を評して「世界一か乞食の吉弥、日本一が
車屋の初、関東一が日尾の30」と語りつがれていたとか、かれの瓢逸な人柄と
妙技のほどが偲ばれる。 吉弥は群馬県多野郡吉井の専福寺で、明治八年
(一八七五)六十四歳で病没している。。先年私は高崎の知人から同地方にのこる高
遠石工の氏名を刻んだ台石の写真を何枚かいただいた。その中で原市太子堂にある台
石に「藤森吉弥」の氏名のあることを発見した。吉弥の消息は、いままで松本と秩父
地方にかぎられていたが、この写真によって原市付近においても活躍していたことが
わかり、薄幸だったかれの半生を思わずにはいられなかった。

他国に広がった石工たち

伊東市在住の木村博氏は、高遠石工の山形における活動を調べているが、遺作
品として、
 宝永四年(一七〇七) 山形市松原地蔵
   供養  中村新兵衛・中村武兵衛
 宝永五年(一七〇八) 上山市永野
    (性運院様石塔) 信濃石切四人
 享保五年二七二〇) 山形市松原阿弥
   陀仏        中村武兵衛
 享保十年(一七二五) 上山市湯坂巳待
   供養塔       中村武兵衛
 享保二十年こ七三五) 上山市弁天灯
   龍台座  中村武兵衛・中村惣七
 延享五年(一七四八) 山形市山家(虚
   空蔵堂・御坂)  権右衛門外九名
 安永6年1794) 山形市霞城(御
本丸北不明石組帳)仁兵衛以下十一二名
 などをあげている。
これらの石工は単独で山形まで来たとは思われない。高遠ご万一二千石から一躍
山形二十万石の城主として転封した保科正之に従って来だのではないかと結論づ
けている。また木村氏は、伊豆に高遠石工の墓を、一二島市徳倉において発見し
ているか、この石工は信州高遠荊口村住人北原数右衛門であることを確認してい
る。同地の歓喜寺の過去帳によれば「寛政八年十月三日一乗法寿信士信州高遠」と
しるされている。
相州の高遠石工 

高遠石工の墓といえばすぐ頭に浮かぶのは、神奈川県伊勢原市日向の旧家鍛代
家の墓地内にある高遠石工の墓である。北原通男氏の調査によれば9基ある墓
標は文化4年から天保13年(一八四一)までの三十五年間に建てられたものである。
 現在日向には石屋を業とするものは八戸あり、うち四戸は秋山姓を名乗り、高
遠藤沢の出身であるという。 高崎付近にのこる高遠石工の作品について、新井南花、
長井進氏提供の資料によれば、石工162人、石造品209に及んでいる。主なる作
品と作者をあげると次の通りである。
 宝置印塔    清水彦之丞 田中忠左衛門
        赤羽文蔵
 地蔵如意輪観王 保科増右衛門
 灯龍鳥居    保科徳次郎 赤羽三右衛門
 二十三夜塔   小池菊蔵 小村四郎兵衛
 常夜塔     藤沢才之助 北原政吉
        守屋1 兵衛
 相模にのこる高遠石工の作品は、飯田
孝、小沢幹氏提供の資料により主なるも
のをあげてみることにしたい。
 地蔵 題目塔  伊藤甚助
 道標  大石荘蔵・大石器蔵
 水鉢 鳥居 頼朝開基の碑
        伊藤新八
海衆塔   北原藤右衛門
宝飯印塔題目塔  向山弥市
 庚申塔       秋山甚四郎
 宇賀神像      長七郎
 大盤若塔      伊藤宇吉
 次に駿河にのこる高遠石工の作品につ
いて、杉山良雄氏の調査より主なるもの
を拾ってみると左記の通りである。
 宝塔     池上七右衛門
 地蔵     北原善吉 池上市郎兵衛
 七観音    北原佐吉
 石灯龍    藤沢又左衛門 伊藤惣右衛門
       大窪佐衛門 北原藤八
 題目塔    清左衛門 沖右衛門
 宗祇句碑   北原孫八
     (以上、『高遠の石工』による)
 私はかつて越後の六日町で、大塚太良兵衛の石仏を調査したことがあるが、太
良兵衛の父吉右衛門は信州上伊那郡木下の出身で、藤森吉弥と同郷である。
 六日町原村の鎮守は小高い山頂にあるが、この石段をつくったのは高遠石工の
吉右衛門、唇吉、勘左衛門、弥右衛門、利八であり、また「小平尾の石工」のも
とを作ったのも高遠石工で同村の鎮守の石鳥居は安永4年9月高遠山室村の石工
庄右衛門が棟梁で6人で刻んだものである、と山本幸一氏は発表している。
 福島県仝津の関戸麓山神社にある安永3年造立の衣冠装束の石像の台座に信州
高遠石工中山太良左衛位、藤原為忠と刻印があると言う。
 この衣冠束帯のみごとな作品は、高遠石工の優れた彫技を示すものとして注目
したい。

地蔵峠と仏山峠の石仏
中山暉雲は信州小県郡東部町から、地蔵峠を越えて群馬県の湯沢温泉にいたる
湯道の百肺観音を造ったことで知られてる伊那出身の石工である。一番は東部
町の新張という部落にあり、百番の観音は湯沢温泉にあるという。峠越えの湯道
はコーキロで、観音に導かれて湯治場にたどりつくということで、当時は庶民の
さかんな信仰を集めていた。
 暉雲は江戸城の石垣修復に参加した石工で、明治十年(一八七七)一番観音を刻
んだとき病床に伏す身となったが、その後は自分の娘を指導しながら観音を刻ま
せたという伝説がある。 百観音の作風を調べた人の話によると、一番の観音より
も、後から刻んだ観音のがどことなく女性的で弱々しい感しがするというのも娘に
彫らせたためだろうか。石工といえば男子にかぎられていたが、当時女性の石工が
いたのだろうか。石切の稼ぎが大きかっただけに考えられないことではない。
 次の話は日光市高橋勝利氏から聞いた話である。゛
 野州と常州との国境仏山峠にある地蔵尊は、高遠石工の作だと伝えられている。
昔、仏山峠に四朗左衛門という悪党が出没して峠を越す旅人を殺しては金品をか
すめていた。一人娘のおせんが、なんとかして父の悪事をやめさせたいと
念じ、巡礼姿に身をやつして峠道にさしかかった。四郎左衛門はその巡礼をみて、
自分の娘とも知らずに殺し、ふところを探すと父をいさめる娘の書き置きがあっ
た。四郎左衛門は前非を悔い改め、それからは仏門に入り、峠を越える旅人のた
めに朝日堂、夕日堂を建立して、念仏三昧の日々を送ったという。
 峠の石地蔵は「おせん」の供養に建てられたもので、峠から四キロほど離れた
上小貫の山中で刻み、村人たちによって峠の上まで引き上げられたものである。
この時使用した引き綱は、女の髪の毛を結び合わせたもので、いまでも大切に保
管されているという。

石工を研究する人びと
以上、高遠石工の旅稼ぎの実態についていくつかの事例をあげたわけであるが、
これらは作者の銘がわかっているもの、あるいは伝承としてのこっているものに
ついて述べたものである。
 したがって無名の石工による作品を数えあげたなら、そこには何千何万という
およそ見当もつかないような大きな数字が浮かび上がってくるにちがいない。高
遠の石工たちをして藩のきびしい統制にもめげず、その制作意欲をかりたてたも
のは、かれらの忍耐強さであり、進取の気性である。さらにいえることは、伝統の
技術ではないだろうか。
 近年、高遠石工の研究は地元ばかりでなく、県外においてもその実態が明らか
にされつつあることはよろこばしい。特に守屋貞治の作品については、多くの人
たちの共感を呼んで地道な研究が続けられている。これらの中には東京の若い夫
妻で、二人そろって貞治の石仏探しに車で各地を飛び廻っている人もいる。貞治
仏の写真展を開いたり「貞治の研究学仝」を作りたいというのもこの人である。
 貞治の初期の作風は、いまのところはっきりしていないが、これを絵画的手法
によってつかんでみたいという研究者がいる。この人は国鉄の職員である。
 また貞治の『石仏菩薩細工』の記録にのこる未発見の十一面観世音菩薩につい
て、その願主布屋作衛門の「布屋」とう屋号を追求することによって発見の手
がかりをつかもうとしている主婦もいる。その4 石仏の研究者は多士済々である。
 信綴の高遠は小さな城下町ではあるが、そこには二千五百 の石仏がのこされて
いるという。そればかりではない。
  たかとほは山裾のまち古きまちゆきかふ子等のうつくしき町
 田山花袋が詠んだ情緒のある町でもある。だがいまも高遠城跡の桜の花や、生
島新五郎との悲恋のヒロイン絵島の墓に思いを寄せる人はあっても、この町がか
つては全国的に名声を高めた高遠石工の揺藍の地であったことを知る者はごくま
れである。
 現代はめまぐるしい時代であるという。
しかし、高遠を訪ねる機会があったら、建福寺の石仏を鑑賞し、三峯川ぞいにある閃
緑岩の採石場を探るひと時をもってほしいと思う。

  (日本の石仏 昭和54年㈱太陽社)

# by okasusumu | 2013-05-18 11:48 | 長谷の自然と歴史
2013年 05月 16日

春の花

木の花が終わり、はざかい期かと思ったが探すとあるある。
オオデマリ
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ウツギ
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アケビ
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スズラン水仙
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スズラン( 日本スズラン 小さく可愛い)
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山つつじ
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つつじ・やまぶき
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タラの芽(天ぷらが上手いが、皮が糖尿にいいらしい)
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なるこゆり
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マムシ草(気持ちが悪く食べる人はいないと思うが有毒)
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ルピナス(ルピナスの丘にするために、草を刈り種をまく)
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一人静(歩けば踏みつぶすほど出ている。)
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木蓮
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# by okasusumu | 2013-05-16 09:04 | 山荘周辺の草花そして虫たち
2013年 05月 06日

石の山神様

路傍の石仏と民間信仰     
大護八郎  (昭和54年太陽社「日本の石仏」)

石のほとけ・石のかみ

石仏といえば、いうまでもなく石を素材とした仏像の意であり、金銅仏や木彫
仏等に対比される言葉であるが、特に近年著しく関心の高まりつつある石仏は、
いささか石仏の名をもって汎称するには問題がある。
 戦後しばらくして急に活況を呈した石仏は、まず道祖神であり庚申塔であった。
道祖神は地方では一般にさえの神といわれ、文献的には奈良時代の『古事記』『日
本書紀』にその発生譚が語られ、現在においても最も多くの人々に愛好されてい
るむので、長野県・群馬県をけじめ、東日本に数多く見られるものであり、庚申
塔もまた東日本を胞としながらも、全国的に著しい分布を兄ているものである。
 道祖神の本末の信仰と、現在に至るまでの造像・信仰の分化の過程には多くの
未解決の問題をはらんでいるにしても、既に占代において邪霊屈伏の神として考
えらていたことは明らかである。
庚申信仰、2、3世紀の頃、中国の道教徒によって唱えだされた。人間の体内に宿
るI.戸という虫が、庚申の晩に限り、人間の寝静まるのをまって体内から脱け
出して天帝の許に参り、その人間の犯した罪をこと大小となく報告する。天帝は
その報告に基づいてさまざまの罰を人間に与える。よって庚申の晩は徹宵して二
戸の体内より脱け出るのを防ぐこととなった。後に仏僧等の干与もあ って、こ
の夜は庚申の神に報寮し、経典等を誦してより効果的なものとすることになり、
近世に入っては全国津々浦々の庶民の問においても庚申待・庚中講が開かれ、講
中によって物凄い数の庚申塔の造立をみて今日に至っているのである。
 これらの道祖神・庚申塔は僅かながら木彫のものもあるが、その大半は石造の
もので、しかも村外れや辻などの路傍に造立され、風雨にさらされて佇立してい
るのである。最も数量も多く関心の高い道祖神・庚申塔は、仏僧の干与によって
蓮台のLに乗ったり、庚申塔の中には主尊を仏像にしているものもあるが、これ
らをもって仏と考えてきた様了はあまり兄られず、神としてみられてきたのであ
る。この故をもって石仏というよりむしろ石神と称すべきものであるが、今日な
お一般には石仏の名が通用している。 道祖神・庚申塔に次いで、その数量の
多いものに馬頭観世片があるが、これは系譜的には仏教の七観盲の一の馬頭観此
七日であって、石仏の名をもって呼ぶのに抵抗はない。しかしながら全国的に信仰
の実態を調べてみると、おびただしい近世以降の馬頭観匹音信仰は、馬の守護神
としての馬樫神・蒼前様と異なるものでなく、殊に東北地方の駒形神社には、山
の神的性格が濃く、道祖神と見誤りがちな木造の男根が報宴されている。おそら
く日本民族の、古代からの家畜としての馬の飼育に当たっての信仰に、途中から
七観音の一としての馬頭観世音が、その像容から在米の信仰の中に潜りこんで、
東北地方以外ではその座を奪っていったものであろう。
 その他、石仏と汎称されるものの中には、水神としての弁才天・作神としての
えびす・人黒・山の神像・田の神像、蚕神としての蚕上神、ドの病に霊験あらた
かな淡島様・山王様その他諸々の石神があり、神像としてあらゆる神が現われて
くるのである。
 勿論石仏の中には、仏説からきた地蔵・観音をはじめ、阿弥陀如来から、あらゆ
る如来像・菩薩像・天部・明王の諸像がある。その絶対数は、神像形・仏像形相
半ばするといってもよろしかろう。それにもかかわらずこれらを石仏の名におい
て汎称することは問題であるが、それは単に名称にこだわるだけでなく、往々に
して信仰の実態を見誤る恐れなしとしないからである。

石仏造立の時代的変遷
現存する石仏の八割近くは近世以降の庶民による造立と言っても過言ではなかろう。ことに東日本においてはその比率はさらに上回る。しかしほかの仏像と同様、庶民による造立以前、しかし中世以前の造立者は中央もしくは地方の豪族並びに僧侶、修験者であった。それは造立者の階層を異にするだけでなく、造立・礼拝の意図が近世以降とは大分異なっていたということができる。
近世に近い中世後期の室町時代の中頃から、板碑やその他の石造塔の中に、庚申待や月待の、近世以降花開く民間信仰関係のものが現われてくる。しかしそれ以前においては、仏教上のいわゆる如来・菩薩・天部・明王部等の純然たる石仏が主となっている。
 これらの石仏は彫法からいって、自然の岩壁を磨きたててそこに仏像を陽刻もしくは陰刻する磨崖仏と、河原石や岩壁から切りとった石材に、丸彫り・陽刻・陰刻するものの一万に大別される。磨崖仏は京畿・大分県・福島県に集中するが、その他の地方にも若干あり、近世以降にあっても、庶民・に心の造像とみられるものも存在する。
 磨崖仏の中には梢穴の周辺に残るものもあるので、磨崖仏を中心に木造の仏殿あるいは廂様のものを建て、一種の仏殿様式をとったもの、あるい。は寵風の横穴を穿ってその奥壁・側壁に仏像を彫刻したものもあるが、本来野天の露仏であったと考えられるものもあるそこで彫られた石仏は多くが侵線より高幻にあり、仏殿の本尊と同様に礼拝の対象としたものであろう。磨崖仏の中には深山幽谷ともいうべき人里離れたところにあって、修験者が行を結ぶ折の礼拝仏・加護仏となったとみられるものもあり、磨崖仏造立の一つの意味を窺わせる。
磨崖仏以外の、いわゆる独立石仏も、意とするところは礼拝の対象であり、仏殿の中または石寵に納められ、時には露仏としてあったと考えられるものもある。
総じて近世より以前のこれらの石仏は、大方は礼拝の対象仏であり、像容も仏像の手本である儀軌にのっとったものが多く、当0 これらの造立を吋能にしたかなりの財力を待った仏教信者の豪族か、その庇護による仏僧の造立で、若干は衆生の零細な喜捨に頼ったものがあったにしても、その量は微々たるものであったろうことは、当時の社会制度からも推察されるところである。これらは概ね奈良時代以降であり、殊に密教の盛んになった平安時代後期から鎌倉時代が全盛期とみられる。
奈良時代以前にも、飛鳥地方に主に見られるおそらく渡来人の手になるであろう男女抱擁像や善悪二神像、猿石その他がある。さらにそれに光立つ古墳刀立物としての福岡県岩戸山・石人山古墳をはじめ、北九州の大分・熊本の三県や山陰の鳥取県などの西日本に、石人・石馬などを兄ることができる。これらはどうも石仏の系譜からは異質のものである。
 現物は残らないが、『日本書紀』に敏達天皇の時に、百済から鹿深臣と佐伯連が仏像とともに石像を持ち帰ったとあるので、大陸系の仏像の将来されたものもあった筈であるが、これらの系列は、奈良時代以降の日本の石仏に直接つながりそうもない。
これらとは別に、奈良時代遍述の各国の風上記の中に、地名伝説と相まって仏や人間その他の形に似た自然石の、いわゆる「像石」信仰が現われてくるし、像石と限らず日本民族の古代信仰の中に立石・岩座・岩境や、宇佐八幡奥の院の御許山頂の三つ石等の出獄信仰と関連した岩石に関する数々の信仰が現われている。近世以降の民間信仰の石神・石仏は、
むしろこれらの石に関する民族信仰の再生・発現としての要素がより濃く現われているように思われる。

道祖神発祥の地は信州か

近世という時代は、ある意味においては、近代を経て現代に直結する時代として注
目すべき時期であり、兵農不可分の中世という時代から、兵農分離、さらには武士の城下町集住によって、農村は純然だる農民の社会となった。権門・蒙族・社寺に隷属していた石工は戦国時代の争戦によって旧族の多くは解体し、その庇護下にあった社寺も往年の経済的基盤を失い、勢い農民・町人に依存せざるを得なくなった。殊に元和堰武以来、城池の新築は勿論、修覆さえも大きな制約を受けて石工は失職して在方に流浪し、在方にあっても次第に高まりつつあった経済力と、武ヒの直接監視から離れて、富有層は前代までの武士に兄倣って信仰~の講を結成するとともに、諸々の信仰Lの造塔並びに墓石の造立に意欲を燃やすにいたり、ここに急速に村村の石仏造立の流行をみたのである。村村の墓地に初めて寛文から元禄期に墓石の造立をみ、その傾向が加速度的に高まったことがよくこれを証している。庚申塔の造立の最初のピークが寛文頃にあり、その他の道祖神や馬頭観世九日、弁才天その他の石仏の造立は傾向的にはややおくれるが、少なくとも中世までに見られなかったこの時代の顕著な特色となっている。寛文頃から庶民の石仏造立が急に始まったからといって、それ以前にそれらの信仰が庶民の間に無かったわけではない。
彼等は造像供養こそしなかったが、自然石や塚等の造立によって信仰の表白はしていた。寛永前後の庚申塔が、東北地方から九州にかけてほとんど同時発生していること、そしてあるところに始まった庚申信仰と庚申塔の造立が遂次伝播していったものでないことが、これを証している。
しかしながら双体道祖神のようなものになると、各地の研究家によって、本家争いがないではない。調査の進むにつれて各種の類型を編年し、その分布の流れを追って本源の地を割り出そうということも、必ずしも不可能なことではあるまい。双体道祖神の中心はなんといっても長野県と群馬県が挙げられようが、それを直ちに道祖神信仰の初源地におきかえることは危険である。しかし一つの信仰の発祥地がどこかにあって、逐次拡散されていったことは考えられることである。例えば道祖神が傀儡子(くぐつ)の守り本尊であったことは事実であり、笹谷良造氏は「傀儡子の民」(「国学院雑誌」59巻第1号)において、本来海人部の民であった彼等が山住の民となって、もともと海人部の民の祭界であった矛を本の杖に代え、杖部として朝廷の馳使になり、彼等の信仰する豊饒をもたらす神霊の宿る人形をクグツという容器に入れて、雛廻し(夷廻し)をしつつ諸国を祝福して歩いた故にクグツといわれた。長野県の山奥の安曇野に入りこんだ安曇氏は、海人部の民であったというのである。氏はそれをもつて道祖神神信仰の基が安曇野にあると言われるのではないが長野県の道祖神研究家の中には双体道祖神発祥の地をこの辺に求めようとする動き
がないわけではない。
 確かに記紀の道祖神(ふなどの神・さえの神)由来譚には、男神が邪神を駆逐するために杖を投げており、その杖がふなどの神とされ、磐石をもって塞いだのが塞ります黄泉の大神ともされている。また傀儡子は大陸からの渡来民との説も有力であり、夷廻しやオシラ遊びとの関係も云々されている。また信州に濃く、東日本中心に分布をもつ巨木や立石に依り憑くミシャグジ信仰をもって道祖神とし、出雲からやってきた諏訪氏族に屈伏しながらも、信仰的に支配した洩矢一族との関係を云々する説もある。
 右の二つの説にもみられるとおり、長野県と道祖神との関係には注目すべきものがあるが、それをもって直ちに群馬県よりも長野県を元祖とするには、道祖神信仰の本質がなお解明しきれない今日、無理であろう。ただ道祖神をもって、柳田国男が『石神問答』で、道祖神即ち塞神の塞はサク・ソコ・セキ等と同根で辺境の意であり「現に信州の佐久郡の如き、上毛の渓谷と高からぬ山脈を隔て、もと湖水ありて土着の早かりし地方と見受け候へば、蝦夷に対立して守りたる境線の義なるべく候。従ってサグジ又はシャグジも塞神の義にして、之を古代に求むとせば、或は石神とは直接の連絡はなく、却って甲斐などの佐久神と同じ神なるべきか」と述べており、佐久神即ちミシャグジ神と道祖神の関係を強調するとともに、信州がある時期に北方の対蝦夷の境線の神かともされている。
 この説を以てさらに敷行すれば、道祖神が信州・上州・甲州に濃く、この辺から周辺に波及したとも考えられ、関西にあまり道祖神が無く、九州に入って再び見られることは、この地が対隼人との境線であったことによって理解される。記紀にその発生譚があるからといって、勿論これを道祖神信仰の始まりということはできないし、その発生はさらに時代を遡るであろうし、あるいは外来の信仰であったかもしれない。よって近世以降の道祖神の造立の発祥地をそれに結びつけて考えることは無理であろう。ただ信仰の分布から推して、東国にその基があったであろうことは想像に難くない。
 信州の石仏で他地方と異なるものは、頭上に複数の馬頭を戴いた木曽郡中心の馬頭観世音の存在であって、さらに二体・一二体並刻像も同様である。その数は無病息災を祈り、あるいは供養する死馬の数という。在米種の小型の木曽駒は、木曽の材木運搬と深い関係があり、この地方の石仏の大半はこれで、村外れに数十体の馬頭群をいたるところに見ることができる。木曽を主に何故こうした様式が生まれたかは、地方色として注目に価しよ
う。

石像に見る山の神と田の神

日本の民間信仰の基盤として、稲作の豊饒をもたらす田の神は、新嘗を終わると山に帰って山の神となる。春先にはまた里に降りて田の神となるとは周知の事実である。中には季節による交替をしない純然たる山の神のあることも云々されているが、ここでは問わないこととする。
 ところがこれ程普遍的な山の神・田の神が、石像となると山の神は群馬・新潟以北の東北地方に、田の神は鹿児島県の旧島津藩領に集中して、他の地方にはほんの僅かを見るだけである。群馬・新潟の山の神は十二天・十二様と称され、一年十二か月にちなんでの作神であり,像容は双体道祖神によく似た男女2神の双体像であり、まま群馬県には単独像もある。田の神は一千躰近くが旧島津藩領に集中し、神官像・僧侶像とともに仕事着姿の
農民像が、杓子とお碗を主に持ち、甑(こしき)簀を冠った後姿は男根そのものであり、
若干の双体像もあるが多くは単体像である。その像容・祭事は道祖神によく似ており、特に伊豆型といわれる単体道祖神により近い。
 これ程日本民族の基本的な田の神・山の神像が、日本の両極にのみあって中央部に何故に無いのであろうか。勿論、像の造立をみていない中央部にも田の神・山の神の信仰はちゃんと存在する。思うに、日本の中央部は大陸からのさまざまな信仰がいち早く伝播するとともに、生活文化の展開も早く、民間信仰自体も次次に分化して、それに伴って像容自体も分化をくり返していったためであろう。
田の神として稲作その他の作物の豊作をもたらす神としては、弁天その他の水神が分化し、さらに恵比須・大黒天像として機能を分かち、庚申や道祖神から地蔵・観音等の仏まで作神としての一翼をになっているのである。作神としての鼻取り地蔵・田掻き地蔵、田の神の機能の一つにある子孕み・子育ても如意輪観七日や地蔵がちゃんと分担しており、牛馬の無病息災には大日如来が、むしろ専業的機能を受け持たれていたのである。
 北日本の山の神像は、山仕事の安全を護り、十二様のように豊作の神とされる他に、安産・子育ての神として、山の神が産室に臨まれぬ限り出産はおこなわれず、また生まれた子の一生を出産時にそこに立合った山の神が握っておられる。牛馬の出産・成長もまた山の神の任務と考えられ、日本中央部の八百万の神の機能を一身に担っておられるのである。
このように素朴な形の山の神・田の神信仰のまま石神、石仏造立期まで受け継がれてきたからには、他の石神・石仏造立の必要を感じないのは当然である。勿論日本の北と南の両極には、山の神・田の神のみの造立ばかりというわけではない。東北における大黒天像、鹿児島における保食神は多く、庚申塔や道祖神像、その他のものの造立も皆無ではない。

同一の地下茎につながる石仏、石神

稲の成長に欠くことのできない水の神としての頭上に鳥居を戴き、矛や宝珠を持つ弁才天の石像は、農村の畦道や泉のほとりなどによく見かけられ、農民の水に対する並々ならぬ信仰をみてとることができる。しかし琵琶を弾ずる弁才天像もまま見られる。琵琶を弾ずる像は、立日楽の神こ云能の神として一般に受けとられるにかかわらず、立日楽に無縁な農村に何故にこの像が見られるのであろうか。古老の言によると、苗代や蚕室に瞽女を招いて三味線にあわせて歌ってもらうことによって、苗の成長をはかり蚕の成育を祈ったという。
 このように農民の願望は悉く豊饒祈願に連なる。日待供養塔・月待供養塔も同
様であって、「日月清明・風雨順時・五穀豊饒・天下泰平」が、農民のあらゆる祈
願に先行する。本来の信仰が何であれ、庚申信仰も道祖神信仰も、農民の多くは
これらを作神として受けとってきた。豊作こそ個体・種族保存の要であった。
 また多彩な石神・石仏の銘の多くに「現当二世安楽祈願」とある。現世と来世の
安楽は人間の究極最高の願望であったが、それとて五穀豊饒こそが基盤であり、死
後心安らかに子孫の繁栄を見守って満足できるのも、子孫の飽食あってのことである。
阿弥陀も、観音も地蔵もその他諸諸の石仏造立も、来世の安楽往生の功徳に連なるものにちがいないが、現世において食うや食わずのきびしい生活を生きぬいてきた農民にとっては、蓮の台に乗り香華聖楽のあの世に楽しみを甘受するよりも、まずは飢餓の苦しみから脱れることを理想とした。仏事における「お高盛り」の白飯が、死者への最高の供養であったのである。
 阿弥陀の石像造立は、その功徳によって西方浄土に赴くことへの期待はあるにしても、路傍の阿弥陀の石仏に期待するものは、もうちょっと現実的なものであった。薬師如来像の前に溜った水で眼病を癒し、自分の病む個所の石仏をさすり、持病の平癒を祈願する。庚申様に掛けられた小さい竹筒の「おみきすず」のお水が、治病の薬として戴かれる。人はこれを迷信といっても、他にすがるものもない一昔前の庶民は、そうせざるを得なか
ったのである。そこに民間信仰の石神・石仏の理屈を超えた信仰があったのである。
 そこに造立された石神・石仏が本来どのような神であれ仏であれ、庶民はその詮索はどうでもよかったのである。そこに日本民族本来の多神教の伝統があった。 それぞれの石神・石仏の本質究明の努力は勿論大切である。しかし庚申信仰の本義を、文献的に明らかになしえても、それが直ちに庶民のおびただしいまでの庚申塔造立の意図に連なるわけではない。 所詮は一つの地下茎に連なる同根の石神・石仏であったのである。
               (日本石仏協会 大護八郎  昭和54日本の石仏)

# by okasusumu | 2013-05-06 15:05 | 長谷の自然と歴史