信州かくれ里 伊那山荘

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カテゴリ:長谷の自然と歴史( 9 )


2013年 05月 19日

黒河内の木地師

諏訪の入野谷系の木地師
                       小林増巳

木地師は、一般に「木地屋」と呼んでいるが、諏訪地方では、ろくろ屋(轆轤)、ごき屋(御
木)などと呼ぶ向きもある。
に木時師は周知のように、山中の適材を選んで膳、椀、血、鉢、折敷類の木地をつくる職業で、古来同家系または異家族が集団して、良材を求めて全国各地に栄えた、と言われている。そしてその歴史は平安時代に遡るという。一説によれば、嘉祥三年(八五〇)三月、仁明天皇が崩御され、皇太子道康親王が第55代文徳天皇として即位された。執政は藤原良房で、その妻女は嵯峨天皇の皇女、潔姫であった。潔姫の生んだ女子、明子は、文徳天皇の妃となり、惟仁親王を生んだ。しかるに文徳天皇は、紀名虎の女、静子の腹に、惟喬親王をもうけていた。親王は外腹とはいえ長子であり、賢明のきこえが高かったので、文徳天皇は惟喬親王を皇太子にと望まれたが、執政良房らの策略で、その意志は果たせず、生後九ヵ月の二男惟仁親王が東宮になった。

貞観十四年(八七二)僧籍にあった惟(これ)喬(たか)親王は都を出て近江国愛智郡蛭谷に世を忍ぶ身となられた。随行者の主なる者は、小椋大臣実秀、大蔵郷惟仲、堀川中納言等であったという。隠棲のつれづれに親王は、ふと拾われた樫の実で椀の型彫を発明されたという。これが木地(素彫)技術の始めとなったものと伝えるが、親王は寛平九年(八九七)五十四歳をもって薨じ(こうじ)られた。その後親土の従者たちが木地仕事を生活の拠りどころとし、やがて全国にその技術が広められ、これが「木地師」発祥の源となったというのである。
 惟喬親王は蛭谷の小野に住まわれたので俗里では、小野宮と呼ばれた。 その後全国の木地師たちはいずれも小野宮従者(公卿)の一族と称し、その家紋に~六弁の菊花紳を川い。彼らの職相を丈徳天皇の皇子、小野宮帷喬親王とするゆ由諸書き「御倫旨」なる一巻を所持し、「西ハ櫓擢ノ立ル程、東ハ駒ノ蹄ノ通ウ程」と制限されることなく全国の山中を稼ぎ歩き、その一族が、鎌倉、室町、江戸初期を通じてその特権を認められた生活を維持できたのであるから、その根拠は確かなものであったに相違ないと考えられる。
 いま所々に残る文書記録によれば、明治四年までの「宗門人別帳」は、惟喬親王の御廟と称する蛭谷の筒井八幡宮別当寺・帰雲庵と、蛭谷の隣地君ケ畑の太皇明神の別当寺・金龍寺の両寺でその手続を行ない、道中手形もここから出し、また「会符」という菊紋をつけた木札に「諸役御免」、裏に「筒井八幡宮」と書したものを立てて荷物を運搬し、江戸時代には道中奉行もこれを認めていたから、関所でも、問屋場でも大名の行列同様大切に扱ったといわれている。 また木地師の家で所持する文書類に、「公文書御用」とあるのは筒井八幡宮社務所、「高椋(倉)御所御用」とあるのは太皇明神社務所ということである。
 現在長野県内で、木地師の後裔と称する家系の最も多い地域は、木曽郡と上・下伊那郡といわれている。

木地師小倉(椋)家
ここで私が述べようとするのは、長野県諏訪郡富士見町内に住む、小倉上男家を中心とした、入野谷系木地師の話である。
 南アルプスと中央アルプスが落ち合う盆地が、上・下伊那郡である。そして南アルプスの西北端が、諏訪湖から流れ出し伊那盆地を縦貫二分する天竜川に突き当たるおよそ八〇キロの一大稜線、これが諏訪郡と上伊那郡の郡界である。
この稜線は平均標高一九〇〇メートルで、両郡を結ぶ峠道は新旧およそ十五ヵ所ほど数えられる。両郡は古来その境があってないほどの交流の歴史があり、『続日本紀』によれば、養老五年(七二こから天平三年(七三一)までの十ヵ年間「諏訪国」が置かれた時、その西域はおよそ上伊那全域に及んだとされる。
 周知のように南アルプスは山深く、いま何方から入山しても車から下りて頂上線の走破に至るまで、健脚、好天候で一週間を要するといわれるほどである。もちろん北アルプスに比べ温暖でもあり、古来良材の産地として知られている。
 当主小倉上男氏によれば、昭和十年頃のこと、父鶴太郎さんが、次のように言っていたそうである。先祖は今からおよそ百八十年ほど前、上伊那郡入野谷郷の黒河内村を出て御所平峠を越え、ここ(諏訪郡の南端、横吹村)に落ちついたが、その頃すでに琥短仕事はせず、もっぱら屋根板  剥ぎや、炭焼、樵などで暮しをたててきたと言い伝えられている。小倉上男氏の祖先と相前後して入野谷郷からこの地に移住した木地師仲間が他に二軒あった。
 一軒は、大蔵索之さんの祖先で、この家は山室谷を経て隣の花場集落に落ちついたが、三一四代後の素之さんが、昭和三十五年に他家に嫁いだ姉と妹さんを地元に残して、南アメリカに移住した。いま一軒は、小椋和男さんの祖先である。小椋さんの祖先は、諏訪郡と山梨県境に位置する
当時の、甲州道中(現国道二〇号線)蔦木宿に落ちついた。先代は小椋幸造先生で、筆者が小学生の頃、地元落合小学校の訓導をしていた。幸造先生の未ご人、ふくみさんの話によると、本家は近年、一族で東京に移住してしまったが、小椋家の家宝として菊花紋のついた立派な書箱があり、御倫旨や、筒井八幡宮公文書などの文書がその中に入っていたという。
 さらに大蔵素之さんの住んでいた花場集落には、葛城姓を名乗る家が現在四軒あるが、この一族の墓石には、代々十六弁の菊花紋が刻まれている。明治維新、行政上の諸法改正で、県庁から調査があり、小倉、大蔵、小椋の三軒は上伊那郡人野谷郷の黒河内村か
ら移住し、代々の身分は、木地師であると申告したそうであるが、葛城氏は平家の落人であり、その詳しい出自は不明である旨申告したと伝えている。この時点でいずれも、十六弁菊花紋は、天皇家の正紋である故、今後一切用いてはならない、と申し渡されたそうである。
そもそも木地師一族は、表紋に十六弁菊花紋、裏紋は丸に桐紋を用いる習わしとされていた。しかし明治に禁止されて以後は、。桐紋を表紋に改め用いているという。
 さてそこで、小倉上男さんの話を続けてみると、祖先の墓碑には菊花紋があって、元治二年(一八六五)没、賢宗奏法居士、俗名小椋作兵衛意正とあったが、明治五年宗門人別帳から戸籍簿に変わった時、小椋の椋を、倉に宛字間違いされ、その後気づいて、村役場に訂正方を申し入れたが駄目だったという。
 また、諏訪郡内には同時期頃伊那谷から来たという木地職が他にもおり、それは平野村(現岡谷市)上浜の大蔵直次郎、下諏訪町の大蔵秀弥、上諏訪町(現諏訪市)大蔵正郎、同・大蔵次郎、同・小椋忠太郎氏等の五家族であったことが、昭和六年諏訪史談会発行の「史跡踏査要項」にも記されている。
 明治の御維新で、職業は誰でも自由となり、木地師の旧来からの特権も薄れていった。白木地類も塗物専業だった「漆屋」が直接鏡輔師を抱えた職人仕事から企業化の時代となった。企業系列から洩れた木地職人は兼業や転業せざるを得なくなり、ある者は柚や樵となり、またある者は炭焼、板剥ぎなどを生業としたという。
 元々土地を耕して領主に年貢を納めた実績がなかったため、維新の地租改正時には一坪の土地の所有も認められず、その屋敷地すらほとんど他人からの借地であったという。
 小倉上男さんの曽祖父等もまたそのような境遇でさんざん苦労の末、追々貯えもでき少しずつ地所を手に入れて農業もするようになった。しかし父鶴太郎が日露戦役に従軍中、祖父弥三郎がバクチ(賭博)に手をだし、山仕事で苦労してたくわえた山林などの多くを失ったという。
横吹村は、富士川の上流釜無川にそそぐ支流、武知川の狭い河畔にある十数戸の小村落であったが、明治七年の秋に他の十ヵ村とともに合併して「富士見村」となった。さらに戦後の町村合併促進法で、諏訪郡南部の、境、落合、本郷の三ヵ村と合
併して「富士見町」となった。もちろんこの町も例外ではなく機械化農業へと変貌する中で、小規校農家は老人農業あるいは、主婦農業となって、青壮年層はサラリーマンに転業した。さらに生活は近代化されて「木地師」とは何なのか、今では尋ねてくれる人も少なく、やがて家宝の文書すらも散逸して、その家系の伝えは消え去り、石塔に残る菊花紋のいわれも不明となるかも知れない。すでにいま、小倉上男さんから聞く、父からという伝え聞きの中にも、祖先がどのような道具を用いて仕事をしていたのかさえ定かではない、と語るのである。
 一般的にも近々百年前の事柄が今日正確に伝わっている例はきわめて少なくなっている。
さてそれでは、富士見町内にかつて移住してきた木地師たちの本拠、入野谷郷の黒河内村とは、木地師に関して一体どんな村だったのか、探ってみることにしよう。

入野谷郷黒河内村

明治初年発行の『長野県市町村誌』によれば、明治八年合併して「長谷村」となった黒河内、溝口、市野瀬、浦など南アルプス仙丈岳の南渓谷を水源とする三峰川の中流に点在する小村落を、総称して″入野谷郷″と呼んできたというが、その初めは天正年間(十六世紀)と伝えている。 またこの人野谷郷は、源平合戦後の平家落人潜伏の地と伝え、数々の証拠資料や遺跡が残っている土地でもある。
 旧黒河内村には、平安末期に、黒河内二郎義純が居り、諏訪上下社の社領に属してこの地を支配していたという。
 吉野朝期には、黒河内朝家が、南朝の皇子信濃宮宗良親主に従ってここを支配した。その後天文年中には、黒河内朝光が諏訪頼重の旗下で支配したが、弘治二年(一五五六)武田信玄に亡ぼされて、天正の頃は、信玄の子仁科五郎信盛が領した。天正十年(一五二八)武田氏が亡ぶや、保科弾正の領するところとなったが、元禄年間には徳川氏の咆轄領となり、その後高遠城主となった内藤氏の支配下に置かれた。
内藤氏の時代には、三峰川上流の山々を「御立山」(藩林)に指定した。そして黒河内村は、
市野瀬、浦の両村とともに「木師(きまま)郷(ごう)」に定められたという。
 木地郷の村人は年々「木地役」を上納して本来の木地物のほか、薪、炭、建家材などを生産し、売買する山稼ぎが許されていたという。
上伊那郡郷土館(高遠町)資料によれば、元禄三年(一六九〇)十一月日付で「黒河内村、浦材、市野瀬村三ヶ村儀者、前々ヨリ木師郷二相極侯二付、木師役致上納、出稼、薪、家材木共二売買仕来申候(後略)」とある。高遠藩では、この木師郷取締役として、旧族の黒河内氏を任命し、入野谷郷三ヵ村と、市野瀬村の技郷、中尾、杉島の二ヵ村を加えた五ヵ村の「木改役」を世襲させ、給料として年闇米三十石を与えたという。 この職分は、山の巡視、樵の世話、材木の鉄砲下し(川流し)など厳しく取締まるものだったようである。
 前記郷土館資料によれば、元禄三年(一六九〇)六月の「木師御免許記札渡帳」に、木木師九人、助水師七十四人に、木師免許札が渡され「此ノ札ヲ以テ三峰川入山、黒川入出稼自有可仕」とある。しかし天保七年(一八三六)六月のものに、黒河内村方三役が高遠藩代官に出した「轆轤運上延納願」には、「木地師共、長々御厚恩二相成罷有候所、去七月ヨリ木地下値二相成候、冬分ヨリ当春二至リー向飯田表へ売不中候間、致方無之罷有候処、冬ヨリ春迄、石灰、炭焼致シ、此節野呂川山へ、持子、日雇等ソレソレ参リ、年寄子供、木屋番仕罷居候二付、甚難渋仕紋、依之植輸御運上之所、木地売紋迄御赦免被成候様奉願上候」とある。この資料の内容をみる限り、当時の人野谷木地郷の人々の生活は、決して安穏たるものではなかったことが窺えるのである。
筒井八幡の職頭書に示される「西は櫓耀ノ立ツル程、東は駒ノ蹄ノ通ル程」と、全国無制限に上納金なしで稼ぎ歩けた木地師の特権生活は、どうやら室町末期で終わっていたかと思われるのである。
余談であるが、文政六年(一八二三)内藤藩(高遠)に起きた「興津騒動」はこの地方では有名である。当時藩の郡代で元締役を兼ねていた興津紋左衛門は、藩主江戸詰の留守中、藩財政窮乏をたて直す一策として、百姓中十五歳以上の男子は毎日草鮭一足宛、女子は木綿一反を上納すべし、と命じたことから一揆が起こり、結局反対派から上訴されて、在府の藩主から追放され、晩年を諏訪の池袋村で寺小屋の師匠をしながら子息郡治兵衛とともにその生涯を終わっている。
 内藤藩が人野谷木地郷の村人に「運上金」という課税措置をとり、村人は収益乏しく納税でき難いとし「轆轤運ヒ延納願」を出したのは、興津騒動から十三年目である。
それから百二十三年後、入野谷郷の木師取締役を務めた黒河内氏末裔の家は、三峰川を堰止める美和ダムの建設で湖底に水没する運命となり、昭和三十四年集落の一部とともに他に移住した。その際黒河内家に旧蔵されていた前記の資料など約一万点が上伊那郷土館に寄託され、そして公開された。

入野谷木地郷からの移住
さて、御所平峠を越えて諏訪郡南部、釜無山の谷間いに点在する小集落に移住した入野谷系木地師の面々は、それぞれ今からおよそ二百三十数年前に住み馴れた三峰川河畔の村を後にしたと伝えている。天保七年(一八三六)記の黒河内文書の内容や、興津騒動にみられる内藤藩の窮乏した財政事情は、まさに、天下御免ともいうべき自由業、木地師一族が住み馴れた土地を捨てざるを得なかった前夜の様相を、物語ってはいないだろうか。
そして、長野県上伊那郡入野谷郷に一時期を住み馴れ、そこを古里とも思う、小倉、大蔵、小椋の一族のたどった運命は、平安時代末に近江国愛智郡蛭谷から全国に散って行った木地師全体の運命を象徴するものではなかろうか。
小倉上男さんは近年武知河畔の横吹から町内の白樺団地に越され、夫婦二人で静かに老後生活を送っている。住居近くに新墓地を入手され、先祖の墓石を近々そこへ移転の運びとおっしやりながら、遠い祖先にまつわる木地師の聞きとりに感慨深げに答えられたのであった。




木地師のふるさと 近江・小椋谷
    (山を忘れた日本人  石川徹也  彩流社)

 二〇〇七年七月、名神高速道路八日市インターから国道四二I号線を東進し、鈴鹿山脈方
面へと向かう。永源寺ダム貯水池を越えてしばらくすると、政所という地点に至り、そこか
ら県道多賀永源寺線を御池川沿いに北上していく。姪谷渠落(滋賀県東近江市永源寺町)は。
通称小椋谷の車がようやく交互交通山道の途中にあった 。山の斜面を少しばかり切り取って造成したわずかばかり土地に少しばかりの家が寄り添うように建っていた
 小椋谷は、全国の木地師の発祥の地とされ、近世にはこことさらに山奥の君ヶ畑集落に全
国の木地師たちを保護・統括する支配所が置かれた。
 木地師は、トチやブナ、ヶヤキなどの木材を伐採し、轆轤と呼ばれる特殊な工具を使って、
椀や盆など円形の木地を作る職人のことで、轆轤師、木地屋とも呼ばれた。
 ほとんどの木地師は、人里離れた深山に入り込んで、良材のある間はその山で生活しなが
ら仕事をし、めぼしい材がなくなると家族全員で新しい山へと移住していった。農民のよう
な定住型の生活形態ではなく、漂泊民であった。
 木地師は、律令時代は轆轤工と呼ばれて、朝廷や大社寺に所属していたが、中世に入ると
轆轤師と呼称も変わり、荘園や社寺、戦国大名の保護の下で全国各地で活動していた痕跡が
みられるようになる。そして、近世に入ると製品も大衆化して木地業は繁栄していった。
 蛭谷には、筒井神社が明治初めごろに、北の多賀町境の筒井峠から遷宮された。元々蛭谷
の集落は筒井峠にあった。この筒井神社の元社務所が木地師資料館となっている。だれもい
ないので、近くの道場に行くと、集落の住民とおぼしき人たちが数人話し込んでいる。目の
あった初老の男性に資料館を見たいというと、「わかりました」と席を立って案内を買って
くれた。
 自治会長の小椋一衛さん(一九四二年生まれ)である。「七、八件は残っているが定住し
ているのは三件だけ。あとは週末だけ来たりして別荘的に使っているようです」と小椋さん
は話した。廃村の淵にある「限界」集落である。
 資料館の中には、こけしや茶碗などの製品をはじめ、古文書が何点も陳列されていた。筒
井情櫨師の職頭が日本中を自由に通行できる権利を認めた平安時代の朱雀天皇による綸旨や、
織田信長が轆轤師の諸役免除を認めた免許状、特定の居住地を持たない木地師のために、小
椋谷の支配所・寺院が木地師の身元を保障するために発行した宗門手形や往来手形などがあ
る。
 これらは、小椋谷の二つの集落が、全国の木地師たちを統括していたことを示す貴重な資
料なのである。江戸時代、蛭谷の筒井公文所と君ヶ畑の高松御所が、そうした木地師たちを
統括する支配所(役所)であった。
 筒井公文所は、筒井峠にあった筒井八幡宮の神主大岩氏と帰雲庵(臨済宗永源寺派)の住
職が中心となって運営されていた。一方、君ヶ畑の支配所は、天皇大明神の年番神主と金龍
寺(曹洞宗永平寺派)の住職が中心となって運営された。
 全国に散らばる木地師たちの保護・統括のため、蛭谷と君ヶ畑の支配所役人はそれぞれ全
国の木地師を訪ね歩いて、自分たちの支配する木地師の確認作業を行った。「氏子狩り」と
呼ばれた活動によって木地師の確認を終えると支配所から神札や鑑札、希望者にはお墨付きと称する天皇の綸旨や昔の為政者による免許状の写しなどを配布した。お墨付きには税の免除や通行の自由など、木地師の特権を認めた内容が認められていた。お墨付きを所持することで同業者集団の中でも代表的な立場を示すことが出来たと言う。
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by okasusumu | 2013-05-19 15:02 | 長谷の自然と歴史
2013年 05月 19日

伊那の木地師の墓

伊那谷の木地師の墓
                        竹入弘元

信濃は山国であるから、山の資源を活用した産業が営まれる。木地師の活動が信濃の一帯で見られたのはきわめて自然である。南信濃の伊那について見ると、木地師が山に寵って木を切り、器を作ったのはいつからか、はっきりしないが、多分近世初期ころからで、氏子狩資料によって裏付けられるのは正徳・宝永年間、十八世紀初期以後である。上伊那では駒ヶ根市中沢の奥、四徳、高遠町長谷村の奥、辰野町横川の奥、その他限られた地域に過ぎない。下伊那地方はずっと広範囲にわたる。根羽村や遠山地方のような愛知県や静岡県につながる山岳地帯が広がっていて、木地師の活動の場に恵まれていたといえよう。ここでは、幕末・明治に伊那谷で活動した木地師について、墓碑を通して述べてみたいと思う。

上伊那地区の墓碑

上伊那郡辰野町横川
 辰野町大字横川の奥、三級の滝手前、十二洞入口の路傍に木地師の墓がある。ここに至るには、JR中央線の信濃川島駅から横川川に沿って、弧を描く横川谷を遡ること約一一キロ、人家がとだえてなおしばらく上った山の中である。木地師の墓七基八入と名号碑一基とがIカ所に並んでいる。この一群は、昭和四十六年二月十七日付で、町文化財に指定されている。これを没年(あるいは建立年)順に列挙する。
 A 別山智伝信女位 小椋竜八妻 文化七庚午(一八一〇)八月十七日
 B 少屋妙林信女位 吉右衛門母 文化七庚午九月七日
 C (菊花紋)黄林恵菊信女位 小椋和平娘 文化七庚午九月二十五日
 D 真性妙空信女位 江州出木地師小椋藤右衛門妻 文化八辛未二力初六日
 E (菊花紋)寂室自照信女位 江州出木地師小椋太平妻 文化九中歳九月八日
 F (菊花紋)無外是宗信士位 五郎左衛門父 俗名大蔵源六 文化十三子十一月十二日
       桃林童女 五郎左衛門娘 文化十四丑年三月十六日
 G 、菊化紋。宝夙妙珍~々位 へ無銘)

H 南無阿弥陀仏(名号碑) 施主江州出木地師 天保二辛卯(一八三一)五月
 これらの墓石を見て感じることを次に記す。
男子はFの五郎左衛門父、俗名大蔵源六ただ一人で、他の七人はすべて女子である。なぜ女子ばかりなのか。
期間は文化七年(一八一〇)から文化十四年まで八年間だけである。名号碑建立の天保二年まででも僅か二十年にすぎない。姓はACDEの四名が小椋で、Fの二名が大蔵であることが知られる。江州出木地師であることがDE二基に書かれている。文化七年に三名もなくなっているのには何か原因があろう。たとえば流行病とか。
ところで、横川の門前地区には瑞光寺という臨済宗の古い寺がある。数度の火災で古い過去帳はないが、享保年間からのものは整理されている。そしてこの谷の奥に住んで木地を作っていた木地師たちは、その死亡に当たって当寺の世話になっていたと見えて過去帳に多数記載されている。こういうことは木地師としては珍しい事例ではあるまいか。そこで、過去帳に基づいてこの土地で死亡している木地師本人およびその家族の年次別、男女別一覧表を作ってみると、次のようである(表―)。
 これによると、江戸時代中後期の享保十六年から文政十三年に至る二十九年間(元文四年から文化六年まで七十一年問空白)にこの地で五十一人の死亡が記録されている。これから推測しても相当多くの木地師たちが住んでいたと思われる。
 また死亡者数を比較すると、過去帳より墓碑の方が毀かに少ないことも知られる。文化十四年には、過去帳の四人に対し、墓碑は一人のみである。そのへんの比較のため、表2を作ってみた。ただし鵬吽はひへ化以前と以後の長い期聞のものが欠けている。ないということは造られなかったのか、それとも幾基かは造られたけれど、ここに集めて
ないということか、不明であるが、いずれにしても実際の死亡数と墓碑の数とでは、墓碑の方が逼かに少ないことは確かで、このことから、今日私たちの目に触れるこ
とのできる墓碑の背景に非常に大勢の木地師が存在したと考えてよいと思われる。
 ケヤキ・トチなどの木を削って、おわん・お盆などの木地を作った木地師が横川川奥地にいつ頃から住んだかは必ずしもはっきりしないが、江戸時代中期には長谷村の奥方面
から移り住んだことが確実で、文化・文政頃随分賑ったが、天保二年(一八三一)に至ると原木の減少や悪病の流行などが原因で、この地をひき払って他に移った。その際、横川川のあちこちの洞にあった墓碑を集め、名号碑を建立して供養した。移った先は中田切川の奥地と思われるという(参考・宮下慶正著『信濃の木地師』。以下この本に負うところが多い)。

伊那市西町、長桂寺墓地
 伊那市西町の長桂寺裏の墓地のうち、小椋一美家墓地に菊花紋を伴う木地師の墓碑
一基と十三仏の碑がある。
 ― (菊花紋陰刻)徳山浄隣居士 慶応三
  年七月二叶日 小椋武左衛門2 十三仏 文化十哭酉三月 木地師佐平
 一美氏は今東京に住んでいるが、この地に小椋家先祖代々之碑を立てて父祖の霊をまつり、前の住所から墓碑と十三仏の碑を、先祖のものだからと、昭和五十六年に移した。一美氏の祖父の記内は遠山(下伊那郡I村・南信濃村のある地域)に住んでいた。十三仏の碑は遠山の上村奥の地蔵峠ふもとにあって、十三仏はそこの地名になっていた。明治初年に遠山から下伊那郡大鹿村に移り、さらに大鹿村のうちの鹿塩に移った。その子喜市はまた鹿塩から上伊那郡長谷村栗沢に移っている。

駒ヶ根市北原墓地
 駒ヶ根市北原墓地東南隅、小松氏墓地にある。高さ四二セソチの小さなもの。
 前面(菊花紋陰刻)大岳良寿居士
          大道貞寿大姉
 右 木地職 大蔵定平 明治九年五月二十二日
 大蔵定平は長谷村栗沢にいた木地師で天保三年(一八三二)頃いったん小県郡大門山に移り、
天保十年代に粟沢の北の女沢にきてまた栗沢に戻った。その後いつの時か駒ヶ根市中沢の奥、桃
平辺へ移り、そして小松と改姓したとみえる。同家は今駒ヶ根市に住んでおられる。昭和三十六年のいわゆる三六災害で、居住不能となり、
転居したと思われる。

高遠町勝間、慨勝寺西裏山
 高遠町勝間から人家のない山道を遥々と登って行く。竜勝寺に着いたら左手にさらに登る。寺から三〇メートルほどで墓地になる。北村家の墓地(ここには郷土史家北村勝雄氏が眠っている)に続いて、木地師の墓が立っている。その奥には当寺歴代の住職の墓碑が四十一基も並んでいる。木地師の墓碑として明確なものは三基で、十数基の墓碑が三列に並んでいるうちの最後列。キメの細かい良質な石を用いてある。向かって右から掲げる。
 1 (桐紋陽刻)清岳浄玄居士 文化十四r丑年(一八一七)二月十二日
  観山智音大姉 嘉永元戊申年(一八四八)五月十七日
 2 (菊花紋陽刻)隣山遊徳居士 文化元甲子年(一八〇四)十二月四日
  先祖代々諸精霊
  鏡岳玄光大姉 天保三壬辰年(一八三二)五月十七日
 3 (桐紋陽刻)禅東携関居士
  禅室妙心大姉 文化十四丁丑年(一八一七)八月九日
 次の一基は紋がなく、木地師墓かどうか明確でないが、大蔵の姓を刻んであり、その可能性が濃い。
 4 (紋なし)性道儀明居士 元治元甲子年(一八六四)四月四日 縫右衛門
   大蔵重左衛門之立
これらの墓碑は、その辺に散らばっていたものを、何年か前に集めたという。どういう系続か、子孫が誰かは不明である。
竜勝寺山の木地師に蛭谷・君ヶ畑から氏子狩魂に人つたのは天保の末・弘化の初年で、それによってこの地に木地師がいたことが証明される。しかしこれらの墓碑により、そ
れより前の文化年間以前から木地師がいたことが明らかになる。上伊那では、この他、長谷村黒河内、大揚寺裏山の大蔵家墓地に、木地師の墓碑が四基ある。大蔵家の兼市氏が黒川地籍を去る時に持って出た同家の古い墓碑だという。
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by okasusumu | 2013-05-19 14:58 | 長谷の自然と歴史
2013年 05月 18日

高遠石工の源流

高遠石工その源流と旅稼ぎ          曽根原俊吉楼 
  
信州の石工について、その古い記録によると、武烈天皇の三年(五〇一)に信州
の石工が、築城のため大和に招かれている。古墳時代後期のことである。
   -私はかつて小著『貞治の石仏』にこんなことをしるした。

信州は日本の屋根である。重畳として連なる高い山脈と、その深い渓谷はいつ
も良質の石材を豊富に提供している。諏訪の輝石安山岩、駒ヶ根の閃緑岩、高遠
の輝緑岩、秦阜の花肖岩、更科の流紋岩、青木湖畔の石英閃長岩など、信州から産
出する石材を数えあげたらきりがない。 このように石材の宝庫である信州にお
いて、たくさんの石工が生まれたのは当然であろう。江戸時代、ここに深く根を
下ろした高遠石工が全国の各地に活躍することになったのも、そこには古墳時代
からの石工の伝統があったからである。 さて信州の石工が古墳時代の築城技術
の上に発展したとはいえ、これを直ちに高遠石工の源流と結びつけるにはやや難
点がないとはいえない。そこでとりあげてみたいのは『新編武蔵風土記稿』であ
る。これによると往古伊那郡より多くの石工が西多摩郡五日市町伊奈に移住した
ことが記録されている。
「伊奈村は郡の中ほどにありて秋留郷にす。村名の起所を尋ぬるに、往古信濃
伊奈郡より石工多く移り住みて、専ら業を広くせし故に村名をなせり。天正十八
年御入国の後江戸城石垣等の御用をつとむと云へり。されど今はその職を業とす
るものなし、江戸日本橋より行程十二里家数二百軒」とある。
 越後の石工大塚太良兵衛は、高遠石工の流れを汲む石工であるが、かれが転書
した『仏像秘法』によると、鎌倉時代すでに高遠石工が存在していることが書きと
められている。
 「石細工始ハ平家アツモリ墓印也。其後信州高遠ヨリトモ公御城イタシテヨリ東
33ヶ国ヲ御免成3700人門出也。ノキ三尺ハナレテ川一二尺ハナレテ石トル
皆ゴメンーーー」
 また石臼の研究家として知られている三輪茂雄氏は、石臼に関連して木曽義仲
の従者西仏坊の足どりを追っていくうちに、江州曲谷で西仏坊が信州より石工を
招いて石臼の製造をはじめたという史実を発見している。いまでも曲谷を訪ねる
と、村中のいたるところにごろごろと石臼が転がっているという。こんなことか
らいっても、鎌倉時代に高遠の石工が他国へ進出していたことがうなずけられる
と思う。
 郷土史家宮下一郎氏は『信濃路五号』において、高遠石工の源流は予想以上に
古い時代、すなわち中世初期以来としている。その根拠として、南北朝時代上伊
那郡大河原に建立された宗良親王の墓標である宝饉印塔をはじめ、東部地方にの
こされている同時代のいくつかの宝医印塔は何れも高遠石工の作であることをあ
げている。
 このようにみてくると、高遠石工の源流は遠く南北朝から鎌倉時代まで遡るこ
とができると思う。

そこで高遠石工の旅稼ぎを考える場合、通説では彼らが全国各地にその足跡を残
すようになったのは江戸時代に入ってからのことと言われている。特に元禄
以降は高遠藩の政策もあって旅稼ぎに出る者が急速に増えたと言える。
この点をさらに詳しく説明するならば元禄四年(1691年)3万3千石で
高遠藩主となった内藤氏は前藩主鳥居氏時代の所領6300余石を幕府領と
して引き上げられたため藩財政は極度に困窮した。これを救済する方策とし
て耕地面積の少ない山間部の農民に対しては、石工として旅稼ぎに出ること
を奨励した。
各郷に「石切目付」をおき、きびしく運上(税金)の取り立てを行なったのもそ
のためである。 また宗門帳の他に『他国旅稼御改帳』
『石切人別御改帳』などを作って代官に差し出していた。これらの内容については、
村によって多少の相違はあるが、概ね次のようなことが骨子となっている。
 1、旅稼ぎに出る者については、五人
   組や請人が責任をもって年貢を納
   め、また役勤めをする。
 2 稼ぎ先では、法度に反することは
   させない。
 3 年内に帰らぬ者あった場合は、そ
行方を詮議して届ける。
 4 田畑の耕作時には、家に帰って作
付けすることを妻子に申し付ける。
 5 秋不作であっても年貢を引くこと
を願い出ない。
これらの実行については当人はもちろん五人組や請け人に連帯責任を
負わせていることがよくわかる。 石工の旅稼ぎに直接かかわりはないが、
高遠藩の過酷な政策と関連して知られている事件に、文政五年(一八二二)に起き
た「興津騒動」がある。 男子十五歳以上六十歳までのものは一
口‐に草桂二足宛、女子は毎月一軒より木綿一反を上納せよ、というもので、これ
に反対して民衆たちが蜂起したのがこの騒動である。これ一つみても石工への圧
制が思いやられるであろう。 文政八年(一八二五)における高遠藩の
『お取箇外物帖』による諸税は下表のとおりであるが、その内石工の運上が他の職
種に比べていかに大きな財源になっていたか、山間部の大野谷、藤沢郷などの実
際をみてほしい。
 石工の旅稼ぎの行先は長野県内が最も多く、岐阜、愛知、山梨、神奈川、群馬
埼玉、栃木、福島、山形等中部地方から関東、東北地方の各地に及んでいる。
 高遠領のうちで一番出稼ぎの多い入野谷、藤沢の両郷における文久二年(一八
六二)の出稼ぎ先と人数は次の通りである。
  信州 129人  飛州  1人
  上州  45人  甲州 97人
  武州  10人  駿州  6人
  濃州  31人  相州 14人
  三州   2人  奥州  2人
          計  337人
     (入野谷郷石切目付平蔵記録

先にも触れたが三輪茂雄氏の石臼の研究からしても高遠地方に見られる反り三角
の手かけのある石臼は高遠石工の作として同形式のものが北信、新潟および会津
地方にあることが確認されている。
 しかし三輪氏は、反り一二角の手かけ穴のある石臼は、これを即高遠石工の作と
決めつけることはできない、筆者の仮定にすぎないとしているが、高遠石工の行
動範囲を追っている私にとっては、たとえそれが仮定にすぎないとしても興味は
尽きない。
 石工の行動範囲の広い例としては、守屋貞治〔明和二年(一七六五)~天保一二年
二八一二二)〕の足跡がある。貞治は藤沢郷塩供村出身の名工で、在世中一三二六林の
石仏を造立したことで知られている。その作品の分布をみると、長野県内では地
元高遠をはじめ、駒ヶ根、宮田、箕輪、木曽、諏訪、松本など、県外では西は岐
阜、愛知、一二重、兵庫、山口、東は群馬、山梨、埼玉、東京、神奈川の各都県にま
たがっている。
 かれには『石仏菩薩細工』という作品の記録がのこされていたため、その作品
の大部分は発見されているが、一部まだ未発見のものがある。いまとちかって交
通不便であった時代において、どうしてこのような広範囲にわたる活動ができた
のであろうか。もちろん貞治の彫技が優れていたことはいうまでもないが、決定
的な理由をあげるならば、それは諏訪温泉寺の願王和尚の導きがあったからであ
る。当時願王和尚は地蔵信仰をひろめるため全国の各地を行脚しているが、その
先々において、実弟実門の仏画と共に貞治の地蔵菩薩像の造立を積極的に薦めて
いる。貞治仏に願王和尚の讃や偶の刻銘がみられるのもそのためである。

名工貞治・吉弥とその周辺

高遠石工が他国に進出して活躍したことについて、改めてここに説明を要しな
いと思うが、その中でも特筆すべきものについて述べてみたい。
 守屋貞治については、さきにもしるした通り、生涯において三三六鉢の石仏を
造立したその優れた彫技は巨匠の名に恥じない。
 かれの作品には建福寺の願王地蔵菩薩像、勝間大橋の不動明王像、光前寺の一二
陀羅尼塔弁四天王、温泉寺の三十三ヶ所観音像など繊細優美な作品が多い。 。
 貞治の弟子渋谷藤兵衛は、貞治らと共に甲州海岸寺の百観音像を刻んでいるが、
かれの代表作としては美篤洞泉寺の宝箇印塔をあげなければなるまい。また箕輪
町地蔵堂の六地蔵菩薩像を造った清水六左衛門、長野市往生寺の地蔵菩薩像を造
った小笠原政平、大町市大黒町の大黒天像を造った伊藤徳十、同留十なども知ら
れた石工である。
 異端の石工として最近注目されているのは藤森吉弥で、上伊那郡木下の出身で
ある。かれの作品は長野県内では、松本において一二鉢の道祖神をのこしているに
過ぎないが、埼玉県秩父郡小鹿野町の観音山に、全長3.08m台石を入れると4m余
の巨大なる仁王像を造立している。高遠石工の作品で県の文化財に指定されている
のはこの一鉢だけである。
 当時秩父地方においては、吉弥の腕を評して「世界一か乞食の吉弥、日本一が
車屋の初、関東一が日尾の30」と語りつがれていたとか、かれの瓢逸な人柄と
妙技のほどが偲ばれる。 吉弥は群馬県多野郡吉井の専福寺で、明治八年
(一八七五)六十四歳で病没している。。先年私は高崎の知人から同地方にのこる高
遠石工の氏名を刻んだ台石の写真を何枚かいただいた。その中で原市太子堂にある台
石に「藤森吉弥」の氏名のあることを発見した。吉弥の消息は、いままで松本と秩父
地方にかぎられていたが、この写真によって原市付近においても活躍していたことが
わかり、薄幸だったかれの半生を思わずにはいられなかった。

他国に広がった石工たち

伊東市在住の木村博氏は、高遠石工の山形における活動を調べているが、遺作
品として、
 宝永四年(一七〇七) 山形市松原地蔵
   供養  中村新兵衛・中村武兵衛
 宝永五年(一七〇八) 上山市永野
    (性運院様石塔) 信濃石切四人
 享保五年二七二〇) 山形市松原阿弥
   陀仏        中村武兵衛
 享保十年(一七二五) 上山市湯坂巳待
   供養塔       中村武兵衛
 享保二十年こ七三五) 上山市弁天灯
   龍台座  中村武兵衛・中村惣七
 延享五年(一七四八) 山形市山家(虚
   空蔵堂・御坂)  権右衛門外九名
 安永6年1794) 山形市霞城(御
本丸北不明石組帳)仁兵衛以下十一二名
 などをあげている。
これらの石工は単独で山形まで来たとは思われない。高遠ご万一二千石から一躍
山形二十万石の城主として転封した保科正之に従って来だのではないかと結論づ
けている。また木村氏は、伊豆に高遠石工の墓を、一二島市徳倉において発見し
ているか、この石工は信州高遠荊口村住人北原数右衛門であることを確認してい
る。同地の歓喜寺の過去帳によれば「寛政八年十月三日一乗法寿信士信州高遠」と
しるされている。
相州の高遠石工 

高遠石工の墓といえばすぐ頭に浮かぶのは、神奈川県伊勢原市日向の旧家鍛代
家の墓地内にある高遠石工の墓である。北原通男氏の調査によれば9基ある墓
標は文化4年から天保13年(一八四一)までの三十五年間に建てられたものである。
 現在日向には石屋を業とするものは八戸あり、うち四戸は秋山姓を名乗り、高
遠藤沢の出身であるという。 高崎付近にのこる高遠石工の作品について、新井南花、
長井進氏提供の資料によれば、石工162人、石造品209に及んでいる。主なる作
品と作者をあげると次の通りである。
 宝置印塔    清水彦之丞 田中忠左衛門
        赤羽文蔵
 地蔵如意輪観王 保科増右衛門
 灯龍鳥居    保科徳次郎 赤羽三右衛門
 二十三夜塔   小池菊蔵 小村四郎兵衛
 常夜塔     藤沢才之助 北原政吉
        守屋1 兵衛
 相模にのこる高遠石工の作品は、飯田
孝、小沢幹氏提供の資料により主なるも
のをあげてみることにしたい。
 地蔵 題目塔  伊藤甚助
 道標  大石荘蔵・大石器蔵
 水鉢 鳥居 頼朝開基の碑
        伊藤新八
海衆塔   北原藤右衛門
宝飯印塔題目塔  向山弥市
 庚申塔       秋山甚四郎
 宇賀神像      長七郎
 大盤若塔      伊藤宇吉
 次に駿河にのこる高遠石工の作品につ
いて、杉山良雄氏の調査より主なるもの
を拾ってみると左記の通りである。
 宝塔     池上七右衛門
 地蔵     北原善吉 池上市郎兵衛
 七観音    北原佐吉
 石灯龍    藤沢又左衛門 伊藤惣右衛門
       大窪佐衛門 北原藤八
 題目塔    清左衛門 沖右衛門
 宗祇句碑   北原孫八
     (以上、『高遠の石工』による)
 私はかつて越後の六日町で、大塚太良兵衛の石仏を調査したことがあるが、太
良兵衛の父吉右衛門は信州上伊那郡木下の出身で、藤森吉弥と同郷である。
 六日町原村の鎮守は小高い山頂にあるが、この石段をつくったのは高遠石工の
吉右衛門、唇吉、勘左衛門、弥右衛門、利八であり、また「小平尾の石工」のも
とを作ったのも高遠石工で同村の鎮守の石鳥居は安永4年9月高遠山室村の石工
庄右衛門が棟梁で6人で刻んだものである、と山本幸一氏は発表している。
 福島県仝津の関戸麓山神社にある安永3年造立の衣冠装束の石像の台座に信州
高遠石工中山太良左衛位、藤原為忠と刻印があると言う。
 この衣冠束帯のみごとな作品は、高遠石工の優れた彫技を示すものとして注目
したい。

地蔵峠と仏山峠の石仏
中山暉雲は信州小県郡東部町から、地蔵峠を越えて群馬県の湯沢温泉にいたる
湯道の百肺観音を造ったことで知られてる伊那出身の石工である。一番は東部
町の新張という部落にあり、百番の観音は湯沢温泉にあるという。峠越えの湯道
はコーキロで、観音に導かれて湯治場にたどりつくということで、当時は庶民の
さかんな信仰を集めていた。
 暉雲は江戸城の石垣修復に参加した石工で、明治十年(一八七七)一番観音を刻
んだとき病床に伏す身となったが、その後は自分の娘を指導しながら観音を刻ま
せたという伝説がある。 百観音の作風を調べた人の話によると、一番の観音より
も、後から刻んだ観音のがどことなく女性的で弱々しい感しがするというのも娘に
彫らせたためだろうか。石工といえば男子にかぎられていたが、当時女性の石工が
いたのだろうか。石切の稼ぎが大きかっただけに考えられないことではない。
 次の話は日光市高橋勝利氏から聞いた話である。゛
 野州と常州との国境仏山峠にある地蔵尊は、高遠石工の作だと伝えられている。
昔、仏山峠に四朗左衛門という悪党が出没して峠を越す旅人を殺しては金品をか
すめていた。一人娘のおせんが、なんとかして父の悪事をやめさせたいと
念じ、巡礼姿に身をやつして峠道にさしかかった。四郎左衛門はその巡礼をみて、
自分の娘とも知らずに殺し、ふところを探すと父をいさめる娘の書き置きがあっ
た。四郎左衛門は前非を悔い改め、それからは仏門に入り、峠を越える旅人のた
めに朝日堂、夕日堂を建立して、念仏三昧の日々を送ったという。
 峠の石地蔵は「おせん」の供養に建てられたもので、峠から四キロほど離れた
上小貫の山中で刻み、村人たちによって峠の上まで引き上げられたものである。
この時使用した引き綱は、女の髪の毛を結び合わせたもので、いまでも大切に保
管されているという。

石工を研究する人びと
以上、高遠石工の旅稼ぎの実態についていくつかの事例をあげたわけであるが、
これらは作者の銘がわかっているもの、あるいは伝承としてのこっているものに
ついて述べたものである。
 したがって無名の石工による作品を数えあげたなら、そこには何千何万という
およそ見当もつかないような大きな数字が浮かび上がってくるにちがいない。高
遠の石工たちをして藩のきびしい統制にもめげず、その制作意欲をかりたてたも
のは、かれらの忍耐強さであり、進取の気性である。さらにいえることは、伝統の
技術ではないだろうか。
 近年、高遠石工の研究は地元ばかりでなく、県外においてもその実態が明らか
にされつつあることはよろこばしい。特に守屋貞治の作品については、多くの人
たちの共感を呼んで地道な研究が続けられている。これらの中には東京の若い夫
妻で、二人そろって貞治の石仏探しに車で各地を飛び廻っている人もいる。貞治
仏の写真展を開いたり「貞治の研究学仝」を作りたいというのもこの人である。
 貞治の初期の作風は、いまのところはっきりしていないが、これを絵画的手法
によってつかんでみたいという研究者がいる。この人は国鉄の職員である。
 また貞治の『石仏菩薩細工』の記録にのこる未発見の十一面観世音菩薩につい
て、その願主布屋作衛門の「布屋」とう屋号を追求することによって発見の手
がかりをつかもうとしている主婦もいる。その4 石仏の研究者は多士済々である。
 信綴の高遠は小さな城下町ではあるが、そこには二千五百 の石仏がのこされて
いるという。そればかりではない。
  たかとほは山裾のまち古きまちゆきかふ子等のうつくしき町
 田山花袋が詠んだ情緒のある町でもある。だがいまも高遠城跡の桜の花や、生
島新五郎との悲恋のヒロイン絵島の墓に思いを寄せる人はあっても、この町がか
つては全国的に名声を高めた高遠石工の揺藍の地であったことを知る者はごくま
れである。
 現代はめまぐるしい時代であるという。
しかし、高遠を訪ねる機会があったら、建福寺の石仏を鑑賞し、三峯川ぞいにある閃
緑岩の採石場を探るひと時をもってほしいと思う。

  (日本の石仏 昭和54年㈱太陽社)
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by okasusumu | 2013-05-18 11:48 | 長谷の自然と歴史
2013年 05月 06日

石の山神様

路傍の石仏と民間信仰     
大護八郎  (昭和54年太陽社「日本の石仏」)

石のほとけ・石のかみ

石仏といえば、いうまでもなく石を素材とした仏像の意であり、金銅仏や木彫
仏等に対比される言葉であるが、特に近年著しく関心の高まりつつある石仏は、
いささか石仏の名をもって汎称するには問題がある。
 戦後しばらくして急に活況を呈した石仏は、まず道祖神であり庚申塔であった。
道祖神は地方では一般にさえの神といわれ、文献的には奈良時代の『古事記』『日
本書紀』にその発生譚が語られ、現在においても最も多くの人々に愛好されてい
るむので、長野県・群馬県をけじめ、東日本に数多く見られるものであり、庚申
塔もまた東日本を胞としながらも、全国的に著しい分布を兄ているものである。
 道祖神の本末の信仰と、現在に至るまでの造像・信仰の分化の過程には多くの
未解決の問題をはらんでいるにしても、既に占代において邪霊屈伏の神として考
えらていたことは明らかである。
庚申信仰、2、3世紀の頃、中国の道教徒によって唱えだされた。人間の体内に宿
るI.戸という虫が、庚申の晩に限り、人間の寝静まるのをまって体内から脱け
出して天帝の許に参り、その人間の犯した罪をこと大小となく報告する。天帝は
その報告に基づいてさまざまの罰を人間に与える。よって庚申の晩は徹宵して二
戸の体内より脱け出るのを防ぐこととなった。後に仏僧等の干与もあ って、こ
の夜は庚申の神に報寮し、経典等を誦してより効果的なものとすることになり、
近世に入っては全国津々浦々の庶民の問においても庚申待・庚中講が開かれ、講
中によって物凄い数の庚申塔の造立をみて今日に至っているのである。
 これらの道祖神・庚申塔は僅かながら木彫のものもあるが、その大半は石造の
もので、しかも村外れや辻などの路傍に造立され、風雨にさらされて佇立してい
るのである。最も数量も多く関心の高い道祖神・庚申塔は、仏僧の干与によって
蓮台のLに乗ったり、庚申塔の中には主尊を仏像にしているものもあるが、これ
らをもって仏と考えてきた様了はあまり兄られず、神としてみられてきたのであ
る。この故をもって石仏というよりむしろ石神と称すべきものであるが、今日な
お一般には石仏の名が通用している。 道祖神・庚申塔に次いで、その数量の
多いものに馬頭観世片があるが、これは系譜的には仏教の七観盲の一の馬頭観此
七日であって、石仏の名をもって呼ぶのに抵抗はない。しかしながら全国的に信仰
の実態を調べてみると、おびただしい近世以降の馬頭観匹音信仰は、馬の守護神
としての馬樫神・蒼前様と異なるものでなく、殊に東北地方の駒形神社には、山
の神的性格が濃く、道祖神と見誤りがちな木造の男根が報宴されている。おそら
く日本民族の、古代からの家畜としての馬の飼育に当たっての信仰に、途中から
七観音の一としての馬頭観世音が、その像容から在米の信仰の中に潜りこんで、
東北地方以外ではその座を奪っていったものであろう。
 その他、石仏と汎称されるものの中には、水神としての弁才天・作神としての
えびす・人黒・山の神像・田の神像、蚕神としての蚕上神、ドの病に霊験あらた
かな淡島様・山王様その他諸々の石神があり、神像としてあらゆる神が現われて
くるのである。
 勿論石仏の中には、仏説からきた地蔵・観音をはじめ、阿弥陀如来から、あらゆ
る如来像・菩薩像・天部・明王の諸像がある。その絶対数は、神像形・仏像形相
半ばするといってもよろしかろう。それにもかかわらずこれらを石仏の名におい
て汎称することは問題であるが、それは単に名称にこだわるだけでなく、往々に
して信仰の実態を見誤る恐れなしとしないからである。

石仏造立の時代的変遷
現存する石仏の八割近くは近世以降の庶民による造立と言っても過言ではなかろう。ことに東日本においてはその比率はさらに上回る。しかしほかの仏像と同様、庶民による造立以前、しかし中世以前の造立者は中央もしくは地方の豪族並びに僧侶、修験者であった。それは造立者の階層を異にするだけでなく、造立・礼拝の意図が近世以降とは大分異なっていたということができる。
近世に近い中世後期の室町時代の中頃から、板碑やその他の石造塔の中に、庚申待や月待の、近世以降花開く民間信仰関係のものが現われてくる。しかしそれ以前においては、仏教上のいわゆる如来・菩薩・天部・明王部等の純然たる石仏が主となっている。
 これらの石仏は彫法からいって、自然の岩壁を磨きたててそこに仏像を陽刻もしくは陰刻する磨崖仏と、河原石や岩壁から切りとった石材に、丸彫り・陽刻・陰刻するものの一万に大別される。磨崖仏は京畿・大分県・福島県に集中するが、その他の地方にも若干あり、近世以降にあっても、庶民・に心の造像とみられるものも存在する。
 磨崖仏の中には梢穴の周辺に残るものもあるので、磨崖仏を中心に木造の仏殿あるいは廂様のものを建て、一種の仏殿様式をとったもの、あるい。は寵風の横穴を穿ってその奥壁・側壁に仏像を彫刻したものもあるが、本来野天の露仏であったと考えられるものもあるそこで彫られた石仏は多くが侵線より高幻にあり、仏殿の本尊と同様に礼拝の対象としたものであろう。磨崖仏の中には深山幽谷ともいうべき人里離れたところにあって、修験者が行を結ぶ折の礼拝仏・加護仏となったとみられるものもあり、磨崖仏造立の一つの意味を窺わせる。
磨崖仏以外の、いわゆる独立石仏も、意とするところは礼拝の対象であり、仏殿の中または石寵に納められ、時には露仏としてあったと考えられるものもある。
総じて近世より以前のこれらの石仏は、大方は礼拝の対象仏であり、像容も仏像の手本である儀軌にのっとったものが多く、当0 これらの造立を吋能にしたかなりの財力を待った仏教信者の豪族か、その庇護による仏僧の造立で、若干は衆生の零細な喜捨に頼ったものがあったにしても、その量は微々たるものであったろうことは、当時の社会制度からも推察されるところである。これらは概ね奈良時代以降であり、殊に密教の盛んになった平安時代後期から鎌倉時代が全盛期とみられる。
奈良時代以前にも、飛鳥地方に主に見られるおそらく渡来人の手になるであろう男女抱擁像や善悪二神像、猿石その他がある。さらにそれに光立つ古墳刀立物としての福岡県岩戸山・石人山古墳をはじめ、北九州の大分・熊本の三県や山陰の鳥取県などの西日本に、石人・石馬などを兄ることができる。これらはどうも石仏の系譜からは異質のものである。
 現物は残らないが、『日本書紀』に敏達天皇の時に、百済から鹿深臣と佐伯連が仏像とともに石像を持ち帰ったとあるので、大陸系の仏像の将来されたものもあった筈であるが、これらの系列は、奈良時代以降の日本の石仏に直接つながりそうもない。
これらとは別に、奈良時代遍述の各国の風上記の中に、地名伝説と相まって仏や人間その他の形に似た自然石の、いわゆる「像石」信仰が現われてくるし、像石と限らず日本民族の古代信仰の中に立石・岩座・岩境や、宇佐八幡奥の院の御許山頂の三つ石等の出獄信仰と関連した岩石に関する数々の信仰が現われている。近世以降の民間信仰の石神・石仏は、
むしろこれらの石に関する民族信仰の再生・発現としての要素がより濃く現われているように思われる。

道祖神発祥の地は信州か

近世という時代は、ある意味においては、近代を経て現代に直結する時代として注
目すべき時期であり、兵農不可分の中世という時代から、兵農分離、さらには武士の城下町集住によって、農村は純然だる農民の社会となった。権門・蒙族・社寺に隷属していた石工は戦国時代の争戦によって旧族の多くは解体し、その庇護下にあった社寺も往年の経済的基盤を失い、勢い農民・町人に依存せざるを得なくなった。殊に元和堰武以来、城池の新築は勿論、修覆さえも大きな制約を受けて石工は失職して在方に流浪し、在方にあっても次第に高まりつつあった経済力と、武ヒの直接監視から離れて、富有層は前代までの武士に兄倣って信仰~の講を結成するとともに、諸々の信仰Lの造塔並びに墓石の造立に意欲を燃やすにいたり、ここに急速に村村の石仏造立の流行をみたのである。村村の墓地に初めて寛文から元禄期に墓石の造立をみ、その傾向が加速度的に高まったことがよくこれを証している。庚申塔の造立の最初のピークが寛文頃にあり、その他の道祖神や馬頭観世九日、弁才天その他の石仏の造立は傾向的にはややおくれるが、少なくとも中世までに見られなかったこの時代の顕著な特色となっている。寛文頃から庶民の石仏造立が急に始まったからといって、それ以前にそれらの信仰が庶民の間に無かったわけではない。
彼等は造像供養こそしなかったが、自然石や塚等の造立によって信仰の表白はしていた。寛永前後の庚申塔が、東北地方から九州にかけてほとんど同時発生していること、そしてあるところに始まった庚申信仰と庚申塔の造立が遂次伝播していったものでないことが、これを証している。
しかしながら双体道祖神のようなものになると、各地の研究家によって、本家争いがないではない。調査の進むにつれて各種の類型を編年し、その分布の流れを追って本源の地を割り出そうということも、必ずしも不可能なことではあるまい。双体道祖神の中心はなんといっても長野県と群馬県が挙げられようが、それを直ちに道祖神信仰の初源地におきかえることは危険である。しかし一つの信仰の発祥地がどこかにあって、逐次拡散されていったことは考えられることである。例えば道祖神が傀儡子(くぐつ)の守り本尊であったことは事実であり、笹谷良造氏は「傀儡子の民」(「国学院雑誌」59巻第1号)において、本来海人部の民であった彼等が山住の民となって、もともと海人部の民の祭界であった矛を本の杖に代え、杖部として朝廷の馳使になり、彼等の信仰する豊饒をもたらす神霊の宿る人形をクグツという容器に入れて、雛廻し(夷廻し)をしつつ諸国を祝福して歩いた故にクグツといわれた。長野県の山奥の安曇野に入りこんだ安曇氏は、海人部の民であったというのである。氏はそれをもつて道祖神神信仰の基が安曇野にあると言われるのではないが長野県の道祖神研究家の中には双体道祖神発祥の地をこの辺に求めようとする動き
がないわけではない。
 確かに記紀の道祖神(ふなどの神・さえの神)由来譚には、男神が邪神を駆逐するために杖を投げており、その杖がふなどの神とされ、磐石をもって塞いだのが塞ります黄泉の大神ともされている。また傀儡子は大陸からの渡来民との説も有力であり、夷廻しやオシラ遊びとの関係も云々されている。また信州に濃く、東日本中心に分布をもつ巨木や立石に依り憑くミシャグジ信仰をもって道祖神とし、出雲からやってきた諏訪氏族に屈伏しながらも、信仰的に支配した洩矢一族との関係を云々する説もある。
 右の二つの説にもみられるとおり、長野県と道祖神との関係には注目すべきものがあるが、それをもって直ちに群馬県よりも長野県を元祖とするには、道祖神信仰の本質がなお解明しきれない今日、無理であろう。ただ道祖神をもって、柳田国男が『石神問答』で、道祖神即ち塞神の塞はサク・ソコ・セキ等と同根で辺境の意であり「現に信州の佐久郡の如き、上毛の渓谷と高からぬ山脈を隔て、もと湖水ありて土着の早かりし地方と見受け候へば、蝦夷に対立して守りたる境線の義なるべく候。従ってサグジ又はシャグジも塞神の義にして、之を古代に求むとせば、或は石神とは直接の連絡はなく、却って甲斐などの佐久神と同じ神なるべきか」と述べており、佐久神即ちミシャグジ神と道祖神の関係を強調するとともに、信州がある時期に北方の対蝦夷の境線の神かともされている。
 この説を以てさらに敷行すれば、道祖神が信州・上州・甲州に濃く、この辺から周辺に波及したとも考えられ、関西にあまり道祖神が無く、九州に入って再び見られることは、この地が対隼人との境線であったことによって理解される。記紀にその発生譚があるからといって、勿論これを道祖神信仰の始まりということはできないし、その発生はさらに時代を遡るであろうし、あるいは外来の信仰であったかもしれない。よって近世以降の道祖神の造立の発祥地をそれに結びつけて考えることは無理であろう。ただ信仰の分布から推して、東国にその基があったであろうことは想像に難くない。
 信州の石仏で他地方と異なるものは、頭上に複数の馬頭を戴いた木曽郡中心の馬頭観世音の存在であって、さらに二体・一二体並刻像も同様である。その数は無病息災を祈り、あるいは供養する死馬の数という。在米種の小型の木曽駒は、木曽の材木運搬と深い関係があり、この地方の石仏の大半はこれで、村外れに数十体の馬頭群をいたるところに見ることができる。木曽を主に何故こうした様式が生まれたかは、地方色として注目に価しよ
う。

石像に見る山の神と田の神

日本の民間信仰の基盤として、稲作の豊饒をもたらす田の神は、新嘗を終わると山に帰って山の神となる。春先にはまた里に降りて田の神となるとは周知の事実である。中には季節による交替をしない純然たる山の神のあることも云々されているが、ここでは問わないこととする。
 ところがこれ程普遍的な山の神・田の神が、石像となると山の神は群馬・新潟以北の東北地方に、田の神は鹿児島県の旧島津藩領に集中して、他の地方にはほんの僅かを見るだけである。群馬・新潟の山の神は十二天・十二様と称され、一年十二か月にちなんでの作神であり,像容は双体道祖神によく似た男女2神の双体像であり、まま群馬県には単独像もある。田の神は一千躰近くが旧島津藩領に集中し、神官像・僧侶像とともに仕事着姿の
農民像が、杓子とお碗を主に持ち、甑(こしき)簀を冠った後姿は男根そのものであり、
若干の双体像もあるが多くは単体像である。その像容・祭事は道祖神によく似ており、特に伊豆型といわれる単体道祖神により近い。
 これ程日本民族の基本的な田の神・山の神像が、日本の両極にのみあって中央部に何故に無いのであろうか。勿論、像の造立をみていない中央部にも田の神・山の神の信仰はちゃんと存在する。思うに、日本の中央部は大陸からのさまざまな信仰がいち早く伝播するとともに、生活文化の展開も早く、民間信仰自体も次次に分化して、それに伴って像容自体も分化をくり返していったためであろう。
田の神として稲作その他の作物の豊作をもたらす神としては、弁天その他の水神が分化し、さらに恵比須・大黒天像として機能を分かち、庚申や道祖神から地蔵・観音等の仏まで作神としての一翼をになっているのである。作神としての鼻取り地蔵・田掻き地蔵、田の神の機能の一つにある子孕み・子育ても如意輪観七日や地蔵がちゃんと分担しており、牛馬の無病息災には大日如来が、むしろ専業的機能を受け持たれていたのである。
 北日本の山の神像は、山仕事の安全を護り、十二様のように豊作の神とされる他に、安産・子育ての神として、山の神が産室に臨まれぬ限り出産はおこなわれず、また生まれた子の一生を出産時にそこに立合った山の神が握っておられる。牛馬の出産・成長もまた山の神の任務と考えられ、日本中央部の八百万の神の機能を一身に担っておられるのである。
このように素朴な形の山の神・田の神信仰のまま石神、石仏造立期まで受け継がれてきたからには、他の石神・石仏造立の必要を感じないのは当然である。勿論日本の北と南の両極には、山の神・田の神のみの造立ばかりというわけではない。東北における大黒天像、鹿児島における保食神は多く、庚申塔や道祖神像、その他のものの造立も皆無ではない。

同一の地下茎につながる石仏、石神

稲の成長に欠くことのできない水の神としての頭上に鳥居を戴き、矛や宝珠を持つ弁才天の石像は、農村の畦道や泉のほとりなどによく見かけられ、農民の水に対する並々ならぬ信仰をみてとることができる。しかし琵琶を弾ずる弁才天像もまま見られる。琵琶を弾ずる像は、立日楽の神こ云能の神として一般に受けとられるにかかわらず、立日楽に無縁な農村に何故にこの像が見られるのであろうか。古老の言によると、苗代や蚕室に瞽女を招いて三味線にあわせて歌ってもらうことによって、苗の成長をはかり蚕の成育を祈ったという。
 このように農民の願望は悉く豊饒祈願に連なる。日待供養塔・月待供養塔も同
様であって、「日月清明・風雨順時・五穀豊饒・天下泰平」が、農民のあらゆる祈
願に先行する。本来の信仰が何であれ、庚申信仰も道祖神信仰も、農民の多くは
これらを作神として受けとってきた。豊作こそ個体・種族保存の要であった。
 また多彩な石神・石仏の銘の多くに「現当二世安楽祈願」とある。現世と来世の
安楽は人間の究極最高の願望であったが、それとて五穀豊饒こそが基盤であり、死
後心安らかに子孫の繁栄を見守って満足できるのも、子孫の飽食あってのことである。
阿弥陀も、観音も地蔵もその他諸諸の石仏造立も、来世の安楽往生の功徳に連なるものにちがいないが、現世において食うや食わずのきびしい生活を生きぬいてきた農民にとっては、蓮の台に乗り香華聖楽のあの世に楽しみを甘受するよりも、まずは飢餓の苦しみから脱れることを理想とした。仏事における「お高盛り」の白飯が、死者への最高の供養であったのである。
 阿弥陀の石像造立は、その功徳によって西方浄土に赴くことへの期待はあるにしても、路傍の阿弥陀の石仏に期待するものは、もうちょっと現実的なものであった。薬師如来像の前に溜った水で眼病を癒し、自分の病む個所の石仏をさすり、持病の平癒を祈願する。庚申様に掛けられた小さい竹筒の「おみきすず」のお水が、治病の薬として戴かれる。人はこれを迷信といっても、他にすがるものもない一昔前の庶民は、そうせざるを得なか
ったのである。そこに民間信仰の石神・石仏の理屈を超えた信仰があったのである。
 そこに造立された石神・石仏が本来どのような神であれ仏であれ、庶民はその詮索はどうでもよかったのである。そこに日本民族本来の多神教の伝統があった。 それぞれの石神・石仏の本質究明の努力は勿論大切である。しかし庚申信仰の本義を、文献的に明らかになしえても、それが直ちに庶民のおびただしいまでの庚申塔造立の意図に連なるわけではない。 所詮は一つの地下茎に連なる同根の石神・石仏であったのである。
               (日本石仏協会 大護八郎  昭和54日本の石仏)
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by okasusumu | 2013-05-06 15:05 | 長谷の自然と歴史
2011年 08月 10日

保科正之

保科正之

高遠の町のあちこちに「保科正之で大河ドラマを」というビラが貼られている。NHKの歴史大河ドラマで扱ってもらい、高遠に賑わいを呼ぶ趣旨なのだろう。朝の連続テレビ小説「おひさま」効果で、安曇野、松本、奈良井宿に人が押し寄せている。テレビの力は大きい。
 ところでこの保科正之、会津で名君であったことは知られている。会津に転勤する前に高遠にいたらしい。というより、もともと高遠藩主に養育されていた。
 「養育されていた」のであるから実の父親がいる。実の父親は二代将軍徳川秀忠。江戸近郊に鷹狩りにでた秀忠が大工の娘、静に手を付けてできちゃった子である。秀忠の正妻は、今の大河ドラマの主人公、「江」であり、出産は城内ではできず、別のところ産み、武田信玄の次女、見性院に預けられた。当時の高遠藩主は武田氏の家臣、保科正光であった。
 秀忠は正妻「江」怖さに側妾のいない将軍で、親孝行でおとなしい妻を愛する優しい男のように思われているがこれはまったくの誤解で、性残忍酷薄な愚かな男であった。保科正之の兄弟と言えば、家光、忠長、継嗣問題で味噌を付けている。家光は子供の頃はむっつりとして陰性、ほとんど口を利かず、何を言われても白い目でじろりと見るだけで、およそ可愛げのない少年であった。弟の忠長の方は容姿端麗、目から鼻へ抜ける利発者で父母を大いに楽しませ、特に母親、江の寵愛は著しいものがあった。江のすべて言いなりの将軍のこと、将軍の地位を継ぐのは忠長に違いないと噂が流れた。
 この噂が少年を傷つけ当時12歳であった家光は自殺を図った。お福(春日局)が気が付き大事には到らなかった、馬鹿親には理由が分からない。お福が家康に直訴して家光が三代将軍を継ぐが、両親への不信感が消え去るわけがない。二代将軍とはその程度の将軍だった。
 実の父親は馬鹿親だが、保科正之は苦労して育った分だけ、人の心が理解できる政治家になっていた。兄の家光の死後その遺命により4代将軍家綱の補佐役として重きをなしている。知られているのが明暦の大火の後の庶民救済、防災対策、無駄の排除、経費節減など現在の課題とまるで変わらない難題に保科正之は立ち向かう。。
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by okasusumu | 2011-08-10 11:59 | 長谷の自然と歴史
2011年 07月 21日

長谷村の沿革

 改修前の玄関におびただしいお札が張ってあった。それを見ると単なる長谷村でなく、美和村や高 遠在、黒河内村など入り組んでいる。調べてみるとすごい山々が村内にあった。
 ウイキペディアによれば次のようになっている。
長谷村(はせむら)
長野県上伊那郡の東部に位置した村。 2006年(平成18年)3月31日に伊那市、高遠町と合併し、新『伊那市』として発足。47年の歴史に幕を閉じた。なお、旧村域には市町村の合併の特例に関する法律(合併特例法)に基づく地域自治区が2016年3月30日を期限として設置された。

地理 中央構造線上に位置する、南アルプスと伊那山地の間の峡谷地域。

 山:入笠山、鋸岳、甲斐駒ヶ岳、仙丈ヶ岳、三峰岳、塩見岳、戸倉山
 河川:三峰川
 湖沼:美和湖(美和ダム湖)
隣接していた自治体
 長野県 伊那市 駒ヶ根市 上伊那郡:高遠町 下伊那郡:大鹿村
     諏訪郡:富士見町
 山梨県南アルプス市 北杜市 静岡県岡市

 沿革
]1875年(明治8年)1月23日 市野瀬村、浦村、黒河内村、溝口村が合併して長谷村となる。
 山室村、荊口村、芝平村、山田村、小原村、勝間村、非持村が合併して河合村となる。

1881年(明治14年)7月27日 - 河合村が山室村、荊口村、芝平村、上山田村、下山田村、小原村、 勝間村、非持村に分立。(非持村以外はのちの高遠町へ)
1883年(明治16年)2月16日 - 長谷村が市野瀬村、浦村、杉島村、中尾村、黒河内村、溝口村に分 立。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行
 非持村、溝口村、黒河内村が合併して美和村が発足。
 市野瀬村、浦村、杉島村、中尾村が合併し伊那里村が発足。
1959年(昭和34年)4月1日 - 美和村と伊那里村が合併し長谷村として発足。
2006年(平成18年)3月31日 - 伊那市,高遠町と合併し、(新)伊那市となる。
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by okasusumu | 2011-07-21 11:50 | 長谷の自然と歴史
2011年 07月 20日

分杭峠

日本一のパワースポットだそうだ
最近訪れる人が多く、シャトルバスに乗らなければ行けなくなったが、そのバス停は山荘からそう遠くない。パワースポットブームが訪れる前にも行っているが、随分雰囲気が違って来た。若い女性が多くなった。信ずる人に幸いあれ。
youtubeに動画がある。分杭峠で検索すればさわやかな画像を見ることができる。
http://www.youtube.com/watch?v=YFj4rDYQXLY&feature=player_embedded

分杭峠(ぶんぐいとうげ (ウイキペディア)
長野県伊那市と下伊那郡大鹿村の境界に位置する標高1,424mの峠。

静岡県浜松市の秋葉神社へ向かう街道として古くから利用された秋葉街道の峠の一つである。秋葉街道は西日本の地質を内帯と外帯に二分する中央構造線の断層谷を利用した街道であり、分杭峠は中央構造線の谷中分水界にあたる。


名称の由来
高遠藩が他領(南方は天領であった)との境界に杭を建て目印としたことに由来するといわれ、峠には「従是北高遠領」の石碑がある[1]。

ゼロ磁場 分杭峠は、一部の人々から「健康に良い『気』を発生させるゼロ磁場地域である」と言われ、マイナスイオンブームの際にマスコミに取り上げられた。中国の気功師・張志祥が来日した際、分杭峠に「気場」を発見したとされる。

日本最大、最長の巨大断層地帯である中央構造線の真上にあり、2つの地層がぶつかり合っている、という理由から「エネルギーが凝縮しているゼロ磁場であり、世界でも有数のパワースポットである」とされている[2]。2009年にテレビ・ラジオや雑誌で分杭峠のゼロ磁場が大きく取り上げられ、分杭峠に来る観光客が急増した[3]。

しかし、こうした考えは科学的に解明されたものではなく、疑似科学の一つと見なされている。中央構造線博物館の学芸員を勤める河本和朗は「地震を発生していないときの断層は,力学的には周囲の岩盤と同じ」と指摘し、「『断層で岩盤が押し合っている』という考えは地球物理的に誤りである」としている。
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by okasusumu | 2011-07-20 21:43 | 長谷の自然と歴史
2011年 07月 19日

蛍とぶ はかなき光に我が憂い見ん

 山あいの棚田に弱き月明かり早苗さ揺らぐ水面に揺れる

 上弦の月の光の優しかる星のまたたき涼やかにみゆ


酒にしびれる体に、吹く風が心地よい。わさび田の清流に冷やされた原酒「笹の露」が旨く自分の適量を見失ってしまったようだ。誰かに見られている気がして、振り向くと棚田の横の林の中に白いものがぼんやり佇み、揺らぎすさんだ心を見透かすように、こちらを見ている。山百合だった。
 
 闇の中妖しき白き山百合に見つめられており揺らぐ心を

この花には静けさの中に気品と優しさがある。漲る野性味にはおかし難い威が備わっている。
 喧しい田の蛙が突然泣き止んだ。静けさがやって来た。

  いずこかにマエストロいて蛙突然鳴きやみぬ静けさが遅い来る
恐ろしいほどの静寂さである。闇はさらに深まってゆく。そして、蛍がポッと光を放った。
  宙を飛ぶ幽かな光に甦るかの夏の日の懐かしきかな
懐かしい光に遠い子供の頃の記憶が蘇った。ときめかせる光である。しかし、どうしてかその光は侘しく寂しい。美は見る者の心のうちにある。酔いどれ男にはもうホタルの光に美しさを感ずることができないのかもしれない。我が憂いは我のものなるが、蛍の光はさびしい。
  ふらふらとふらつきながら蛍とぶはかなき光に我が憂い見ん
どんなに頑張っても、あの幽かな光に闇を照らす力などありはしない。はかない努力が寂しく滑稽にうつる。南の島に蛍の木があって、その木が電飾に輝くクリスマスツリーのように闇を照らすのをテレビのドキュメンタリー番組で見た。画面で見る限りその光に寂しさはない。一瞬を写し出す画面に滅びがないからだろう。
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by okasusumu | 2011-07-19 16:07 | 長谷の自然と歴史
2011年 07月 15日

三峰川の川霧

 天気の良い早朝、発生した川霧は三峰川の流れと共に下る。その流れを追った日(7月11日)霧はは美和湖の直前で消えた。
流れと共に下るときは晴天、逆に遡るときは天気が悪くなる。その後水田上に広がり、朝日が戸倉山の頂に輝く頃、すべてが消えた。f0067937_13424239.jpg
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by okasusumu | 2011-07-15 09:26 | 長谷の自然と歴史