信州かくれ里 伊那山荘

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カテゴリ:山荘周辺の文化財( 9 )


2011年 08月 17日

双体道祖神

双体道祖神

 安曇野豊科の双体神。注意深く探していたら、電柱に張られたビラが目に入って来た。1週間後に近くの公民館で開催される講演会の案内である。歴史作家の井沢氏などが安曇族を語るらしい。ビラを見て頭を駆け巡ったのが傀儡子(くぐつ)であった。。f0067937_17375238.jpgf0067937_17381883.jpg

 道祖神が傀儡子の守り本尊であることはよく知られている。本来、海人部(あまべ)の民であった彼らが山住のたみとなり、もともと海人部の祭界であった矛を木の杖に換え、朝廷の馳使(はせつかい)になり、彼らの信仰する豊穣をもたらす神霊の宿る人形をクグツという容器にいれて諸国を祝福して歩いたから海人部の民が傀儡と呼ばれるようになったらしい。長野県の山奥の安曇野に入り込んだ安曇族は海人部の民だった。安曇族 ー海人部ー安曇野ークグツー道祖神であり、道祖神が多いのが頷けるのである。こんな話だったら聞いてみたいが、山荘からは中央高速を使って1時間、話の内容を推理するだけにした

路傍の石仏と民間信仰     
大護八郎  (昭和54年太陽社「日本の石仏」)

石のほとけ・石のかみ

石仏といえば、いうまでもなく石を素材とした仏像の意であり、金銅仏や木彫
仏等に対比される言葉であるが、特に近年著しく関心の高まりつつある石仏は、
いささか石仏の名をもって汎称するには問題がある。
 戦後しばらくして急に活況を呈した石仏は、まず道祖神であり庚申塔であった。
道祖神は地方では一般にさえの神といわれ、文献的には奈良時代の『古事記』『日
本書紀』にその発生譚が語られ、現在においても最も多くの人々に愛好されてい
るむので、長野県・群馬県をけじめ、東日本に数多く見られるものであり、庚申
塔もまた東日本を胞としながらも、全国的に著しい分布を兄ているものである。
 道祖神の本末の信仰と、現在に至るまでの造像・信仰の分化の過程には多くの
未解決の問題をはらんでいるにしても、既に占代において邪霊屈伏の神として考
えらていたことは明らかである。
庚申信仰、2、3世紀の頃、中国の道教徒によって唱えだされた。人間の体内に宿
るI.戸という虫が、庚申の晩に限り、人間の寝静まるのをまって体内から脱け
出して天帝の許に参り、その人間の犯した罪をこと大小となく報告する。天帝は
その報告に基づいてさまざまの罰を人間に与える。よって庚申の晩は徹宵して二
戸の体内より脱け出るのを防ぐこととなった。後に仏僧等の干与もあ って、こ
の夜は庚申の神に報寮し、経典等を誦してより効果的なものとすることになり、
近世に入っては全国津々浦々の庶民の問においても庚申待・庚中講が開かれ、講
中によって物凄い数の庚申塔の造立をみて今日に至っているのである。
 これらの道祖神・庚申塔は僅かながら木彫のものもあるが、その大半は石造の
もので、しかも村外れや辻などの路傍に造立され、風雨にさらされて佇立してい
るのである。最も数量も多く関心の高い道祖神・庚申塔は、仏僧の干与によって
蓮台のLに乗ったり、庚申塔の中には主尊を仏像にしているものもあるが、これ
らをもって仏と考えてきた様了はあまり兄られず、神としてみられてきたのであ
る。この故をもって石仏というよりむしろ石神と称すべきものであるが、今日な
お一般には石仏の名が通用している。 道祖神・庚申塔に次いで、その数量の
多いものに馬頭観世片があるが、これは系譜的には仏教の七観盲の一の馬頭観此
七日であって、石仏の名をもって呼ぶのに抵抗はない。しかしながら全国的に信仰
の実態を調べてみると、おびただしい近世以降の馬頭観匹音信仰は、馬の守護神
としての馬樫神・蒼前様と異なるものでなく、殊に東北地方の駒形神社には、山
の神的性格が濃く、道祖神と見誤りがちな木造の男根が報宴されている。おそら
く日本民族の、古代からの家畜としての馬の飼育に当たっての信仰に、途中から
七観音の一としての馬頭観世音が、その像容から在米の信仰の中に潜りこんで、
東北地方以外ではその座を奪っていったものであろう。
 その他、石仏と汎称されるものの中には、水神としての弁才天・作神としての
えびす・人黒・山の神像・田の神像、蚕神としての蚕上神、ドの病に霊験あらた
かな淡島様・山王様その他諸々の石神があり、神像としてあらゆる神が現われて
くるのである。
 勿論石仏の中には、仏説からきた地蔵・観音をはじめ、阿弥陀如来から、あらゆ
る如来像・菩薩像・天部・明王の諸像がある。その絶対数は、神像形・仏像形相
半ばするといってもよろしかろう。それにもかかわらずこれらを石仏の名におい
て汎称することは問題であるが、それは単に名称にこだわるだけでなく、往々に
して信仰の実態を見誤る恐れなしとしないからである。

石仏造立の時代的変遷

現存する石仏の八割近くは近世以降の庶民による造立と言っても過言ではなかろう。ことに東日本においてはその比率はさらに上回る。しかしほかの仏像と同様、庶民による造立以前、しかし中世以前の造立者は中央もしくは地方の豪族並びに僧侶、修験者であった。それは造立者の階層を異にするだけでなく、造立・礼拝の意図が近世以降とは大分異なっていたということができる。
近世に近い中世後期の室町時代の中頃から、板碑やその他の石造塔の中に、庚申待や月待の、近世以降花開く民間信仰関係のものが現われてくる。しかしそれ以前においては、仏教上のいわゆる如来・菩薩・天部・明王部等の純然たる石仏が主となっている。
 これらの石仏は彫法からいって、自然の岩壁を磨きたててそこに仏像を陽刻もしくは陰刻する磨崖仏と、河原石や岩壁から切りとった石材に、丸彫り・陽刻・陰刻するものの一万に大別される。磨崖仏は京畿・大分県・福島県に集中するが、その他の地方にも若干あり、近世以降にあっても、庶民・に心の造像とみられるものも存在する。
 磨崖仏の中には梢穴の周辺に残るものもあるので、磨崖仏を中心に木造の仏殿あるいは廂様のものを建て、一種の仏殿様式をとったもの、あるい。は寵風の横穴を穿ってその奥壁・側壁に仏像を彫刻したものもあるが、本来野天の露仏であったと考えられるものもあるそこで彫られた石仏は多くが侵線より高幻にあり、仏殿の本尊と同様に礼拝の対象としたものであろう。磨崖仏の中には深山幽谷ともいうべき人里離れたところにあって、修験者が行を結ぶ折の礼拝仏・加護仏となったとみられるものもあり、磨崖仏造立の一つの意味を窺わせる。
磨崖仏以外の、いわゆる独立石仏も、意とするところは礼拝の対象であり、仏殿の中または石寵に納められ、時には露仏としてあったと考えられるものもある。
総じて近世より以前のこれらの石仏は、大方は礼拝の対象仏であり、像容も仏像の手本である儀軌にのっとったものが多く、当0 これらの造立を吋能にしたかなりの財力を待った仏教信者の豪族か、その庇護による仏僧の造立で、若干は衆生の零細な喜捨に頼ったものがあったにしても、その量は微々たるものであったろうことは、当時の社会制度からも推察されるところである。これらは概ね奈良時代以降であり、殊に密教の盛んになった平安時代後期から鎌倉時代が全盛期とみられる。
奈良時代以前にも、飛鳥地方に主に見られるおそらく渡来人の手になるであろう男女抱擁像や善悪二神像、猿石その他がある。さらにそれに光立つ古墳刀立物としての福岡県岩戸山・石人山古墳をはじめ、北九州の大分・熊本の三県や山陰の鳥取県などの西日本に、石人・石馬などを兄ることができる。これらはどうも石仏の系譜からは異質のものである。
 現物は残らないが、『日本書紀』に敏達天皇の時に、百済から鹿深臣と佐伯連が仏像とともに石像を持ち帰ったとあるので、大陸系の仏像の将来されたものもあった筈であるが、これらの系列は、奈良時代以降の日本の石仏に直接つながりそうもない。
これらとは別に、奈良時代遍述の各国の風上記の中に、地名伝説と相まって仏や人間その他の形に似た自然石の、いわゆる「像石」信仰が現われてくるし、像石と限らず日本民族の古代信仰の中に立石・岩座・岩境や、宇佐八幡奥の院の御許山頂の三つ石等の出獄信仰と関連した岩石に関する数々の信仰が現われている。近世以降の民間信仰の石神・石仏は、
むしろこれらの石に関する民族信仰の再生・発現としての要素がより濃く現われているように思われる。

道祖神発祥の地は信州か

近世という時代は、ある意味においては、近代を経て現代に直結する時代として注
目すべき時期であり、兵農不可分の中世という時代から、兵農分離、さらには武士の城下町集住によって、農村は純然だる農民の社会となった。権門・蒙族・社寺に隷属していた石工は戦国時代の争戦によって旧族の多くは解体し、その庇護下にあった社寺も往年の経済的基盤を失い、勢い農民・町人に依存せざるを得なくなった。殊に元和堰武以来、城池の新築は勿論、修覆さえも大きな制約を受けて石工は失職して在方に流浪し、在方にあっても次第に高まりつつあった経済力と、武ヒの直接監視から離れて、富有層は前代までの武士に兄倣って信仰~の講を結成するとともに、諸々の信仰Lの造塔並びに墓石の造立に意欲を燃やすにいたり、ここに急速に村村の石仏造立の流行をみたのである。村村の墓地に初めて寛文から元禄期に墓石の造立をみ、その傾向が加速度的に高まったことがよくこれを証している。庚申塔の造立の最初のピークが寛文頃にあり、その他の道祖神や馬頭観世九日、弁才天その他の石仏の造立は傾向的にはややおくれるが、少なくとも中世までに見られなかったこの時代の顕著な特色となっている。寛文頃から庶民の石仏造立が急に始まったからといって、それ以前にそれらの信仰が庶民の間に無かったわけではない。
彼等は造像供養こそしなかったが、自然石や塚等の造立によって信仰の表白はしていた。寛永前後の庚申塔が、東北地方から九州にかけてほとんど同時発生していること、そしてあるところに始まった庚申信仰と庚申塔の造立が遂次伝播していったものでないことが、これを証している。
しかしながら双体道祖神のようなものになると、各地の研究家によって、本家争いがないではない。調査の進むにつれて各種の類型を編年し、その分布の流れを追って本源の地を割り出そうということも、必ずしも不可能なことではあるまい。双体道祖神の中心はなんといっても長野県と群馬県が挙げられようが、それを直ちに道祖神信仰の初源地におきかえることは危険である。しかし一つの信仰の発祥地がどこかにあって、逐次拡散されていったことは考えられることである。例えば道祖神が傀儡子(くぐつ)の守り本尊であったことは事実であり、笹谷良造氏は「傀儡子の民」(「国学院雑誌」59巻第1号)において、本来海人部の民であった彼等が山住の民となって、もともと海人部の民の祭界であった矛を本の杖に代え、杖部として朝廷の馳使になり、彼等の信仰する豊饒をもたらす神霊の宿る人形をクグツという容器に入れて、雛廻し(夷廻し)をしつつ諸国を祝福して歩いた故にクグツといわれた。長野県の山奥の安曇野に入りこんだ安曇氏は、海人部の民であったというのである。氏はそれをもつて道祖神神信仰の基が安曇野にあると言われるのではないが長野県の道祖神研究家の中には双体道祖神発祥の地をこの辺に求めようとする動き
がないわけではない。
 確かに記紀の道祖神(ふなどの神・さえの神)由来譚には、男神が邪神を駆逐するために杖を投げており、その杖がふなどの神とされ、磐石をもって塞いだのが塞ります黄泉の大神ともされている。また傀儡子は大陸からの渡来民との説も有力であり、夷廻しやオシラ遊びとの関係も云々されている。また信州に濃く、東日本中心に分布をもつ巨木や立石に依り憑くミシャグジ信仰をもって道祖神とし、出雲からやってきた諏訪氏族に屈伏しながらも、信仰的に支配した洩矢一族との関係を云々する説もある。
 右の二つの説にもみられるとおり、長野県と道祖神との関係には注目すべきものがあるが、それをもって直ちに群馬県よりも長野県を元祖とするには、道祖神信仰の本質がなお解明しきれない今日、無理であろう。ただ道祖神をもって、柳田国男が『石神問答』で、道祖神即ち塞神の塞はサク・ソコ・セキ等と同根で辺境の意であり「現に信州の佐久郡の如き、上毛の渓谷と高からぬ山脈を隔て、もと湖水ありて土着の早かりし地方と見受け候へば、蝦夷に対立して守りたる境線の義なるべく候。従ってサグジ又はシャグジも塞神の義にして、之を古代に求むとせば、或は石神とは直接の連絡はなく、却って甲斐などの佐久神と同じ神なるべきか」と述べており、佐久神即ちミシャグジ神と道祖神の関係を強調するとともに、信州がある時期に北方の対蝦夷の境線の神かともされている。
 この説を以てさらに敷行すれば、道祖神が信州・上州・甲州に濃く、この辺から周辺に波及したとも考えられ、関西にあまり道祖神が無く、九州に入って再び見られることは、この地が対隼人との境線であったことによって理解される。記紀にその発生譚があるからといって、勿論これを道祖神信仰の始まりということはできないし、その発生はさらに時代を遡るであろうし、あるいは外来の信仰であったかもしれない。よって近世以降の道祖神の造立の発祥地をそれに結びつけて考えることは無理であろう。ただ信仰の分布から推して、東国にその基があったであろうことは想像に難くない。
 信州の石仏で他地方と異なるものは、頭上に複数の馬頭を戴いた木曽郡中心の馬頭観世音の存在であって、さらに二体・一二体並刻像も同様である。その数は無病息災を祈り、あるいは供養する死馬の数という。在米種の小型の木曽駒は、木曽の材木運搬と深い関係があり、この地方の石仏の大半はこれで、村外れに数十体の馬頭群をいたるところに見ることができる。木曽を主に何故こうした様式が生まれたかは、地方色として注目に価しよ
う。

石像に見る山の神と田の神

日本の民間信仰の基盤として、稲作の豊饒をもたらす田の神は、新嘗を終わると山に帰って山の神となる。春先にはまた里に降りて田の神となるとは周知の事実である。中には季節による交替をしない純然たる山の神のあることも云々されているが、ここでは問わないこととする。
 ところがこれ程普遍的な山の神・田の神が、石像となると山の神は群馬・新潟以北の東北地方に、田の神は鹿児島県の旧島津藩領に集中して、他の地方にはほんの僅かを見るだけである。群馬・新潟の山の神は十二天・十二様と称され、一年十二か月にちなんでの作神であり,像容は双体道祖神によく似た男女2神の双体像であり、まま群馬県には単独像もある。田の神は一千躰近くが旧島津藩領に集中し、神官像・僧侶像とともに仕事着姿の
農民像が、杓子とお碗を主に持ち、甑(こしき)簀を冠った後姿は男根そのものであり、
若干の双体像もあるが多くは単体像である。その像容・祭事は道祖神によく似ており、特に伊豆型といわれる単体道祖神により近い。
 これ程日本民族の基本的な田の神・山の神像が、日本の両極にのみあって中央部に何故に無いのであろうか。勿論、像の造立をみていない中央部にも田の神・山の神の信仰はちゃんと存在する。思うに、日本の中央部は大陸からのさまざまな信仰がいち早く伝播するとともに、生活文化の展開も早く、民間信仰自体も次次に分化して、それに伴って像容自体も分化をくり返していったためであろう。
田の神として稲作その他の作物の豊作をもたらす神としては、弁天その他の水神が分化し、さらに恵比須・大黒天像として機能を分かち、庚申や道祖神から地蔵・観音等の仏まで作神としての一翼をになっているのである。作神としての鼻取り地蔵・田掻き地蔵、田の神の機能の一つにある子孕み・子育ても如意輪観七日や地蔵がちゃんと分担しており、牛馬の無病息災には大日如来が、むしろ専業的機能を受け持たれていたのである。
 北日本の山の神像は、山仕事の安全を護り、十二様のように豊作の神とされる他に、安産・子育ての神として、山の神が産室に臨まれぬ限り出産はおこなわれず、また生まれた子の一生を出産時にそこに立合った山の神が握っておられる。牛馬の出産・成長もまた山の神の任務と考えられ、日本中央部の八百万の神の機能を一身に担っておられるのである。
このように素朴な形の山の神・田の神信仰のまま石神、石仏造立期まで受け継がれてきたからには、他の石神・石仏造立の必要を感じないのは当然である。勿論日本の北と南の両極には、山の神・田の神のみの造立ばかりというわけではない。東北における大黒天像、鹿児島における保食神は多く、庚申塔や道祖神像、その他のものの造立も皆無ではない。

同一の地下茎につながる石仏、石神
稲の成長に欠くことのできない水の神としての頭上に鳥居を戴き、矛や宝珠を持つ弁才天の石像は、農村の畦道や泉のほとりなどによく見かけられ、農民の水に対する並々ならぬ信仰をみてとることができる。しかし琵琶を弾ずる弁才天像もまま見られる。琵琶を弾ずる像は、立日楽の神こ云能の神として一般に受けとられるにかかわらず、立日楽に無縁な農村に何故にこの像が見られるのであろうか。古老の言によると、苗代や蚕室に瞽女を招いて三味線にあわせて歌ってもらうことによって、苗の成長をはかり蚕の成育を祈ったという。
 このように農民の願望は悉く豊饒祈願に連なる。日待供養塔・月待供養塔も同
様であって、「日月清明・風雨順時・五穀豊饒・天下泰平」が、農民のあらゆる祈
願に先行する。本来の信仰が何であれ、庚申信仰も道祖神信仰も、農民の多くは
これらを作神として受けとってきた。豊作こそ個体・種族保存の要であった。
 また多彩な石神・石仏の銘の多くに「現当二世安楽祈願」とある。現世と来世の
安楽は人間の究極最高の願望であったが、それとて五穀豊饒こそが基盤であり、死
後心安らかに子孫の繁栄を見守って満足できるのも、子孫の飽食あってのことである。
阿弥陀も、観音も地蔵もその他諸諸の石仏造立も、来世の安楽往生の功徳に連なるものにちがいないが、現世において食うや食わずのきびしい生活を生きぬいてきた農民にとっては、蓮の台に乗り香華聖楽のあの世に楽しみを甘受するよりも、まずは飢餓の苦しみから脱れることを理想とした。仏事における「お高盛り」の白飯が、死者への最高の供養であったのである。
 阿弥陀の石像造立は、その功徳によって西方浄土に赴くことへの期待はあるにしても、路傍の阿弥陀の石仏に期待するものは、もうちょっと現実的なものであった。薬師如来像の前に溜った水で眼病を癒し、自分の病む個所の石仏をさすり、持病の平癒を祈願する。庚申様に掛けられた小さい竹筒の「おみきすず」のお水が、治病の薬として戴かれる。人はこれを迷信といっても、他にすがるものもない一昔前の庶民は、そうせざるを得なか
ったのである。そこに民間信仰の石神・石仏の理屈を超えた信仰があったのである。
 そこに造立された石神・石仏が本来どのような神であれ仏であれ、庶民はその詮索はどうでもよかったのである。そこに日本民族本来の多神教の伝統があった。 それぞれの石神・石仏の本質究明の努力は勿論大切である。しかし庚申信仰の本義を、文献的に明らかになしえても、それが直ちに庶民のおびただしいまでの庚申塔造立の意図に連なるわけではない。 所詮は一つの地下茎に連なる同根の石神・石仏であったのである。
               (日本石仏協会 大護八郎  昭和54日本の石仏)



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by okasusumu | 2011-08-17 17:38 | 山荘周辺の文化財
2011年 07月 28日

旧開智学校(松本)

旧開智学校(松本)
山荘から高速道路を使って一時間たらず、松本城の近くにある。
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これがなぜ重文と思ったが、日本で最も古い小学校のひとつで納得。
概要 (Wikipedia)
 1873年(明治6年)に第二大学区筑摩県管下 第一中学区 第一番小学 開智学校 として開校。1965年(昭和40年)からは明治時代の教育資料を展示した博物館になっており、当時使われていた机(二人掛けで、天板が開く)や筆記用具(チョークと黒板消し)などが展示してある。もとは廃仏毀釈で廃寺となった松本藩主戸田氏の菩提寺・全久院の跡地に開校し、女鳥羽川南岸に移ったが、昭和期に使われなくなると信州大学付属病院跡地であった現在の場所に移築された。国の重要文化財に指定されている。
 1987年に愛媛県東宇和郡宇和町(現・西予市)の開明学校の姉妹館と提携している。

沿革 松本藩校崇教館の流れを汲む。また当校内に中学水準に相当する課程として設置された英学課は、旧制松本中学・長野県松本深志高等学校の祖となった。

建築
 旧開智学校は明治時代の代表的な擬洋風建築で、日本瓦葺きの木造2階建て、外壁は漆喰塗である。校舎は白を基調としており、中央に塔があり、その下に彫刻がある。地元出身で東京で西洋建築を学んだ大工棟梁の立石清重により作られた。東京の開成学校と東京医学校を参考に作られたと言われる。

現存する部分は移築されたもので、当時は西側に同じく2階建ての教室棟が存在した。現存する校舎とつながっていたが、移設の際取り壊された。資料館として修復される際に塔を中心に左右対称であるかのように復元されたが、その名残もあり実は左右対称にはなっていない(窓の数を数えると明白である)。
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by okasusumu | 2011-07-28 13:54 | 山荘周辺の文化財
2011年 07月 14日

蚕玉大神・二十二夜塔

蚕玉大神 和泉原集落の入り口にある。「ああ野麦峠」の岡谷に近く、このあたりも養蚕は盛んだった。

二十二夜塔 蚕玉大神に並んでほかの石仏とともにある。ほとんどが文字碑である。相模の国では月待塔は二十三夜塔であり、、間違いかなと調べてみたところ地域により違いがあるようだ。

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かいこの神を「蚕玉(こだま)」と読む。その昔、養蚕が盛んだった地域では、蚕玉神、蚕神、蚕玉大神、蚕玉神社、などと書かれた文字碑が多く見られる。なお「蚕」の旧字体で「蠶」を使ったものが多い。
「玉」の代わりに「魂」を使ったものもある。
ほかに、養蚕神、蚕影(こかげ)などと書かれたものもある。

「神虫」と書いて、「かいこ」と読ませる異体字も、ときどき見かける。養蚕は、農村地方にとって、現金収入を得られる貴重な産業で、神の虫と呼ぶくらい大事にされていたことがうかがえる。

かいこの神として、女神が彫られたものもある。波に乗り、繭玉(まゆだま)を手にしていることが多く、この女神の名は「金色(こんじき)大天女」という説もある。
また、馬鳴菩薩(めみょうぼさつ)が蚕の神であるという説があり、馬に乗った石像も作られている。貧しい人々に衣服をさずけてくれる菩薩とされる。
 
「あヽ野麦峠」によれば、製糸産業によって得た外貨で、国は軍艦を買い、国力増強に努めた。野麦峠を越えてやってきた乙女たちの手がつむぎ出す、細い絹糸が、まさに国の命をつないでいたのである。



二十二夜塔
月待行事にかかわる石造遺物として、月待塔がある。信仰に対する供養を目的に造立されたもので、二十三夜塔を中心に各地で確認されている。これらを系統的に調査・分類することによって、造立された時代における信仰の実態をある程度推測することも可能である。ただし、現存する遺物は中世以降に集中しており、それ以前における有力な手がかりはほとんど見あたらない。
【月待板碑】
 中世に造立された板碑の一種で、月待供養を目的としたものです。関東地方に多く、薄い板状の石のほとんどが緑泥片岩を素材としているため青石塔婆とも呼ばれます。現存する最古の月待板碑は、1441(嘉吉元)年造立とされている〔『月待板碑の誕生』文0132〕。

【月待五輪塔】
 板碑とは別に、地輪部に「月待供養」の銘がある五輪塔がいくつか知られている。東京都西部のあきるの市には2基の月待五輪塔があり、そのうちの1基は1486(文明18)年の造立。この塔は空輪部と風輪部が欠損しており、現存する地・水・火輪部の高さは約45㌢となっている。中世の月待史料としては板碑よりも少なく、貴重な存在といえる。

【月待供養塔】
 通常、石造物に"〇〇夜(待)供養"とあるものを総称して月待供養塔としていうが、これらがすべて実際の月待信仰とかかわりがあったかどうかは明らかではない。月待板碑の後をうけて、主に近世から大正時代にかけて造立され、関東地方の利根川流域などでは、江戸時代初期と後期にそのピークがみられる。
 現在知られているものでは、十五夜、十六夜、十七夜、十八夜、十九夜、二十夜、二十一夜、二十二夜、二十三夜、二十六夜などの供養塔があり、地域によってかなり偏った分布を示しています。関東地方では、多摩川水系や相模川水系において二十三夜塔を主体とし、荒川水系では二十二夜塔が多くみられる。また、広大な流域をもつ利根川水系にあっては、山間部上流域の二十一夜塔、中流域の二十二夜塔と十九夜塔の明瞭な分布境界の存在、さらには下流域から茨城県、栃木県、福島県にいたる十九夜塔の広域的な分布など、それぞれに特徴をもった現況が認められる。なお、十九夜塔は、長野県や奈良県などにも分布しています。
 
 月待塔における主尊の選択は、ほとんどが仏教の教義に基づいており、十九夜と二十二夜では如意輪観音、
 二十三夜は勢至菩薩、そして二十六夜が愛染明王とほぼ決まっている。これらは、石造物としての形態の変化とともに、時代背景や石工の技量ともあいまって実にさまざまな像容を表現している。
 ただ、二十三夜塔においては主尊を刻さない文字だけの塔が多いことや、江戸で大流行をみせた二十六夜待に関しては、信仰の広がりに比べて遺されている二十六夜塔が極端に少ないなど、月待信仰の実態を解明するうえで重要な鍵を握っているとみられる。
 また、近世の石造物であっても、単に「月待供養」と刻まれた地蔵菩薩や月待講中が造立したさまざまな形態の石造物も認められる。二十三夜の供養を目的とした場合も、地蔵菩薩を主尊としたものや石灯籠、石幢、石祠などを含めて広義の月待塔に含める見方があり、神道系の「月読尊」にかかわる石塔も同様です。このように、月待塔の分類はさまざまな要素の組み合わせにより成立している側面がある。

【造立の実態】
 供養塔は、月待講中による造立が一般的です。十九夜塔や二十二夜塔などでは女人講の比率が高く、同一地区で数十年おきに造立された事例もみられます。近世後期以降の文字だけの銘文を刻した石塔では、その台石部分に講中の人名を刻んだものがあるが、供養塔の造立となれば、それ相応の金銭的負担が発生することになり、それぞれの時代において地域社会の一員として果たすべき責任が明確になっていたようである。
 【月待塔に表れた月】
 月待信仰を代表する二十三待では、旧暦二十三夜の月を拝することが第一の目的。各地の伝承も、概略ではあるすがそのような行事の実態をよく伝えています。二十三夜塔のなかには、月の姿を石に刻んだものがあり、そこから当時の人びとが二十三夜月に対して抱いていたイメージを推察できる。こうして比較してみますと、同じ事象に対する感覚には、相当の曖昧さがあることがわかる。
 旧暦二十三夜の月といっても、月齢はいつも同じというわけではない。実際には、下弦(半月)を境にして少し膨らんだ姿から逆に少し細くなった形まで変化がみられます。石塔に刻まれた月は、総体的に細い傾向を示しているが、傾きに対する誤解はともかくとしても、形に関しては二十六夜の月と混同した傾向が認められる。要するに、その地域の知識人や僧侶、造立にあたっての世話人や願主、あるいは実際に作業する石工などの複合的な感覚の産物といえる。
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by okasusumu | 2011-07-14 09:41 | 山荘周辺の文化財
2011年 07月 14日

庚申塔

 庚申 和泉原集落の入り口にある。どこの集落の入り口にあるが高遠石工の作品なのだろう路傍の石仏とも言い難いほどみな大きい。それほど古いものではないが、重機がなかった頃、こんな石をどのようにして運んだのか不思議でならない。村人総出で設置したのだろうか。
 石があって、石工が育ったと考えるのが自然だが、石はどこにあるのか。
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庚申塔(こうしんとう)(ウィキペディア)
庚申塚(こうしんづか)ともいい、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のこと。庚申講を3年18回続けた記念に建立されることが多い。塚の上に石塔を建てることから庚申塚、塔の建立に際して供養を伴ったことから庚申供養塔とも呼ばれる。

庚申講(庚申待ち)とは、人間の体内にいるという三尸虫という虫が、寝ている間に天帝にその人間の悪事を報告しに行くのを防ぐため、庚申の日に夜通し眠らないで天帝や猿田彦や青面金剛を祀って宴会などをする風習である。

庚申塔の石形や彫られる神像、文字などはさまざまであるが、申は干支で猿に例えられるから、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿を彫り、村の名前や庚申講員の氏名を記したものが多い。同様の理由で庚申の祭神が神道では猿田彦神とされ、猿田彦神が彫られることもある。また、猿田彦神は道祖神とも信仰されるため、庚申信仰が道祖神信仰とも結びつくこととなった。さらに仏教では、庚申の本尊は青面金剛とされるため、青面金剛が彫られることもある。

庚申塔には街道沿いに置かれ、塔に道標を彫り付けられたものも多い。これは道祖神など他の路傍の石仏にはあまりみられない機能であり、庚申塔の特色とされている。

庚申塔は全国的な分布が確認されているが、地域によって建立数に差が見られる。特に旧相模国を中心とした地域では数多くの庚申塔が建立された。なお相模国には日本で初めて三猿が彫られた庚申塔(茅ヶ崎市輪光寺、市重要文化財)や青面金剛が彫られた日本最古の庚申塔などが残っている。

歴史 [編集]庚申塔の建立が広く行われるようになるのは、江戸時代初期(寛永期以降)頃からである。以降、近世を通して多数の庚申塔が建てられた。当初は三猿像や青面金剛像を彫り付けたものが大多数であったが、しだいに「庚申塔」あるいは「庚申尊天」と文字のみ彫り付ける形式が増加する。

明治時代になると、政府は庚申信仰を迷信と位置付けて街道筋に置かれたものを中心にその撤去を進めた。さらに高度経済成長期以降に行われた街道の拡張整備工事によって残存した庚申塔のほとんどが撤去や移転されることになった。

現在、残存する庚申塔の多くは寺社の境内や私有地に移転されたものや、もともと交通量の少ない街道脇に置かれていたため開発による破壊を免れたものである。田舎町へ行くと、今でも道の交差している箇所や村落の入り口などに、「庚申尊天」と書かれた石柱を全国で見ることができる。

道祖神(どうそじん、どうそしん(ウイキペディア)
路傍の神である。集落の境や村の中心、 村内と村外の境界や道の辻、三叉路などに主に石碑や石像の形態で祀られる神で、 芭蕉の「奥の細道」では旅に誘う神様として冒頭に登場する。 村の守り神、子孫繁栄、近世では旅や交通安全の神として信仰されている。 古い時代のものは男女一対を象徴するものになっている。餅つき(男女の性交を象徴する)などにもその痕跡が残る。

概要
 ]全国的に広い分布をしているが、出雲神話の故郷である島根県には少ない。甲信越地方や関東地方に多い。平安時代にはすでに「道祖」という言葉が書物に出てきているが、松尾芭蕉の『奥の細道』の序文で書かれることで有名になる。しかし、芭蕉自身は道祖神のルーツには、何ら興味を示してはいない。

 日本に伝来してからは、初期は百太夫信仰や陰陽石信仰となり、民間信仰の神である岐の神と習合した。さらに、岐の神と同神とされる猿田彦神と、その妻といわれる天宇受売命と男女一対の形で習合したりもし、神仏混合で、地蔵信仰とも習合したりしている。このため道祖神は、古代から近世に至るまで時代によって様々な信仰、宗教と融合する。

 道祖神の「祖」の漢字のつくりの「且」は、甲骨文字、金文体上では男根を表している。これに呼応するように、文字型道祖神では「道」の文字が女性器の形をしているものもある。

各地で様々な呼び名が存在する。道陸神、賽の神、障の神、幸の神(さいのかみ、さえのかみ)、タムケノカミなど。秋田県湯沢市付近では仁王さん(におうさん)の名で呼ばれる。

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by okasusumu | 2011-07-14 08:56 | 山荘周辺の文化財
2011年 07月 07日

熱田神社

熱田神社(あつたじんじゃ)長谷支所の近くにある村の鎮守として日本武尊を祀っている。f0067937_20365355.jpg
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(www.omiyasan.com/south/ina/post-7.php)によれば
熱田神社は、織田信長と今川義元との桶狭間の合戦の折に登場する、名古屋市の熱田神宮を勧請して産土神として奉ったのが起源とされている。
集落の鎮守として日本武尊を祀っている。
地域の主要道路から山の傾斜を登り、社殿は集落の中に建っている。
 県宝、重要文化財に指定されており、道路に案内板が出されている。


鳥居をくぐると、右手に手水舎、左手奥には舞宮、そして拝殿の両側に二つの境内社が建っている。
舞宮は、旧長谷村の文化財として指定されている。
もともと拝殿の前に建っていたらしいが、舞宮を使うために便宜上、鳥居の奥に場所を移したそうだ。

神前に踊りや芝居などの芸能を奉納する際に使用されるもので、建築当初から、芸能は地域に住む住人が作り、演じてきたそうだ。
 この地に住む人々の文化的な創造活動の舞台として存在していた。本殿は、拝殿背後の覆屋に囲われて建っている。
 艶やかな色彩が目を惹き、細やかで大量の彫刻が施されていることが一見して分かる特徴になっている。
 この装飾は、江戸時代の建築様式の中でももっとも過飾だった時期の傾向を示しているといわれている。
 縁の下の羽目や、横架材と柱の間に設けられている三手先の組物など、いたるところに彫刻が施されている。


 土台や長押、頭貫、脇障子などのたくさんの部材に施されている彫刻などは、重要文化財に指定され埼玉県にある歓喜院聖天堂の本殿と共通しているという。
 本殿は覆屋に囲まれているため、その部材の隙間から内部の詳細を覗くことになるが、色彩が豊かで素木の部分とのバランスが良く、非常に多く彫刻が使用されている箇所などは、特に専門的が無くても目を惹き興味をそそられるものだと思う。
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熱田神社

所在地伊那市長谷溝口宮之久保1993-1
本殿 県宝
宝暦13年(1763)棟札写・文書
祭神日本武尊・天照大神・八劔大明神
大工池上善八郎(本姓:高見)
建築様式一間社 隅木入春日造 銅板

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by okasusumu | 2011-07-07 08:34 | 山荘周辺の文化財
2011年 07月 06日

江島幽閉の地

美和ダムへの上り坂の途中にある。看板があるが、人が訪れているのは見たことはない。 
 現在、高遠城の近くに江島御囲の地があり、観光客の同情を買っているが、初めに流された地は、三峰川をさらに遡った長谷村のこの地。美和ダムがその後にできており、本来の幽閉の地の想像は難しいが、それでも城のそばとは格段の違いがある。皮肉にも近くを山室川が流れている。

さて、幽閉に至った経緯については「女神占い秘話」というサイトにある。  f0067937_10112850.jpgf0067937_10114513.jpgf0067937_1012226.jpg

正徳4年(1714)1月12日。少年将軍家継の時代です。

将軍・徳川家継は数え6歳。実際に政治を動かしていたのは、将軍の補佐役・
新井白石ですが、彼は老中の肩書きは持たず、幕閣には大老井伊直興・老中
秋元喬知らが名を連ね、また側用人間部詮房が権力を振るっていました。ど
うもどこが幕府の中心なのか訳が分からない時代です。

この日、大奥の年寄役(といっても当時30歳くらい)絵島はお仕えしている
月光院(将軍家継の生母)の名代で、何人もの奥女中を連れ、前将軍家宣の
お墓参りに芝の増上寺に行き、その帰り、懇意の呉服商後藤縫殿助の誘いで
山村座の美男俳優生島新五郎の舞台を見ました。

そして舞台がはねた後、絵島一行は生島たちを呼び、茶屋で宴会を開きます。
ところが、宴会に夢中になりすぎて、絵島一行は大奥の門限に遅れてしまい、
江戸城の中奥と大奥を仕切る扉の前で立ち往生する羽目になるのです。

絵島:私は絵島であるぞ。通しなさい。
係 :いえ、たとえどなたでも時間を過ぎたら通せません。

こんな押し問答をやっている内に、このことは江戸城内全てに知れ渡ること
になり、さすがの絵島も何らかの処分を覚悟せざるを得ない状況になってし
まうわけですが、それがとんでもないことになってしまいました。

当時、大奥内には、前将軍家宣の正室・天英院を中心とする勢力と絵島が仕
える将軍の生母月光院を中心とする勢力がありました。また天英院は老中・
秋元喬知に親しく、月光院は側用人・間部詮房や補佐役・新井白石らに近い
状況にあります。この事件は天英院や老中秋元らにとっては、勢力を挽回す
る絶好のチャンスと映りました。

関係者が徹底的に調べられ、規律がゆるんでいた大奥の状況が次々と明らか
にされます。関連して色々な問題が出てきた結果、処分者はなんと千数百名
にも達してしまいました。巻き添えを食って山村座は廃絶され、生島は三宅
島に遠島になってしまいます。ほか数名の役者が遠島になっています。また
これを機会に江戸のあちこちにあった芝居小屋が全て浅草聖天町(猿若町)に
移転を命じられました。

そして絵島自身はなんと死罪。絵島の兄の白井平右衛門も妹の監督責任を問
われて切腹ということになりますが、月光院の嘆願により、絵島本人につい
ては、罪一等を減じて、高遠藩お預けとなりました。

なお、この事件を題材にした芝居では、絵島が生島を呉服を入れる箱に隠し
て大奥に連れ込み、情事をしていた、などとされますが、これはあくまで
創作であり、事実ではないというのが大方の見方のようです。

なお、これで一矢報いたと思っていた老中秋元喬知ですが、本人がこの年8月
にあっけなく亡くなってしまいます。しかしこの事件のあと大奥では天英院
の勢力の方が優勢となり、翌年、将軍家継が亡くなると、この天英院が強く
推した紀伊の徳川吉宗が次の将軍となります。

吉宗は将軍に就任するとすぐに、月光院派とみた間部詮房や新井白石らを即
罷免。また大奥にも大整理を掛けて、大奥の人員は半減したといいます。

また吉宗は享保7年(1722)この事件の処罰者に対する恩赦を行い、中心人物
の絵島以外は全員赦免されて、生島も江戸に戻ったといいますが、その後も
芝居を続けたのかどうかは定かではありません。


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by okasusumu | 2011-07-06 10:15 | 山荘周辺の文化財
2011年 07月 05日

八人塚

八人塚

 直線にすると山荘まで100メートルくらいのところにある。顕彦閻魔帳で扱ったことがある。
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 八人塚は集落から少し外れた道から少し下がったところにあった。
道から見下ろす塚一帯は、墓の持つ薄暗さなど微塵もなく、公園のように整備されていた。周囲は畑、こんもりとした森の先に美和湖がある。
 塚が不自然に感じられるのは、周囲の鬱蒼とした樹木と、塚に移植された庭木のように形が作られた松とが不釣合なためだ。大自然の中に坪庭を持ちこんだようで、まだ馴染んでいなかった。
道に付けられた鉄の階段を下り、畑の中にある塚に向かうと、畑の先の農家で、犬が、やかましく吠え立てた。
 記憶の回路が微動だにしないのは、塚そのものが、顕彦の少年時代のものでなく、最近造られたものだからに違いない。近くに三峰川の川原はなかった。
 この地は、出稼ぎをして年貢を捻出した高遠石工のふるさとで、自然石に彫られた碑や石仏があちこちの路傍に置かれている。それらの碑と違い、八人塚は塚石が磨きのかかった立派なものだった。 建立者が墓を記念碑に変えてしまったようだ。
 表面に八人の名前が列記され、裏に元信州大学教授が、村民の要望を受けて書いたとあった。建立 年月は昭和五十年五月とある。
 由来には、
「甲斐の武田信玄軍の伊那侵攻に、黒河内正信など八人の開発領主が決起、武田軍に加担する木曾を攻めた。しかし、これが信玄の逆鱗に触れ、天竜川の川原で磔にされた」
とある。
 黒河内正信たちの動きを、戦略もなければ戦術もないと言うのは簡単だが、待てよと顕彦は考えた。結果を知っていればこそ、無謀な、後先を考えない、近くの弱そうな相手を攻める子供のけんかと同じだと批判は出来る。しかし信玄の強さも、周囲の情勢も黒河内正信たちは、知る由も無いのだ。
 山の中に住み、先祖がようやく開いた所領を、命を懸けて守り抜かねばならなかった。それで窮余の一策、武田の姫が嫁入りした木曾を襲う行動に出た。姫を人質に取るつもりだったのだろうか。
 ベンチに腰を下ろし、出かけに由紀子が渡してくれた弁当を食べた。のんびりすると眠気が襲ってきた。犬の鳴き声が遠くなってゆく。

   五

 森のざわめきで顕彦は目を覚ました。少し色づいた栗やケヤキの葉がはらはらと風に飛ばされ、相変わらず犬がほえ続けていた。畑の先の森が黒河内正信の昆城があったところと道の駅でもらってきた観光パンフレットにあった。
 八人の領主の、所領を愛する思いに打たれ領民は、ほとぼりが冷めた頃、刑場から遺骸を運び出し、この地に目立たないように小さな石を置き祀ったのだそうだ。不本意にも磔にされ、領民により刑場から持ち出され、この地の塚に葬られたのだから正信たちの霊や魂がこの土地にしがみついているとしても不思議ではない。
……いわゆる地縛霊、侵せば霊に取り憑かれても致し方ない。
 しかし、この八人塚の碑は、どう見ても新しい。ダム工事や周辺道路の整備で邪魔になった古い石像、碑、無縁仏をどこかに片付けて、代わりに大きな物を作ったのだろう。日本の墓に付き物のおどろおどろしさが全くない。
 建立年月は、奇しくも二人の友人が亡くなった年のことである。
静かに眠っていた霊魂が周囲の開発により眠りを覚ました。ところが霊の依代であった墓石や石碑、石などが移されていた。
 依代は一般的には神々が降臨するところとされるが、坐光寺玲奈は、行き場をなくした霊たちの拠り所でもあると言う。その依代がなくなっては戻るところがわからない。霊は依代を探し、さまよった。
遠く相模国へ持ち運ばれたものもあり、霊は荒れた。
 整備時に地縛霊を鎮めたのなら、顕彦の周囲での災いは回避されたに違いない。それが鎮まっていないのだから、元々の塚はどこかにある。梅津の作文には、三峰川の土手とあったが、それらしきところは、今は美和湖の湖底のようだ。
 迷信だと思っていた霊や祟りが、にわかに現実味を帯びてきた。
 玲奈との待ち合わせ時間が近づいていた。
 階段を上り、道に出て、車のドアを開けようとしたとき、山側の鬱蒼とした斜面におびただしい石仏や石塔、丸い石などが乱雑に置かれていることに気がついた。
……おや? 



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by okasusumu | 2011-07-05 10:04 | 山荘周辺の文化財
2011年 06月 27日

山の神様の石像?

土蔵の先、約50メートルの森の斜面にある。傾いているので直そうとしたが動かず、そのままの状態で、周囲の竹を刈り取った。前は獣道、シカやイノシシが行き来している。f0067937_9543310.jpg
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 しばらくは、石仏として、合掌し頭を下げていたが、そのうち輪郭が、仏様というより、神様に近いと見えるようになり、挨拶を2礼2拍手1拝に変えた。
よく考えてみれば、信州は石仏の故郷ともいえる地である。しかし、日本の民間信仰の基盤として稲作の豊穣をもたらす山の神、田の神の石像は知られていない。調べてみると山の神は群馬、新潟以北の東北地方、田の神は鹿児島に集中していてほかの地方にはほんの僅かに見るだけだそうだ。しかも、群馬、新潟に見られる山の神は十二天・十二様と称されて1年12か月にちなんでの作神であって、双体道祖神に似た男女2神の双体像で、単独像は少ないらしい。してみるとこの神様、極めて珍しいと言うことになる。
 とはいえ、本来、どのような仏であれ神であれ、この地の人はどうでも良かった。そこに日本民族本来の多神教の伝統が見えて来る。
 この石像より先、森の斜面にに、山の神の祠が2か所ある。
折りをみて山の神の石像がなぜ少ないのか、また旅稼ぎの高遠石工について調べてみようと思う。

「山の神」Wikipedia:
農民の間では、春になると山の神が、山から降りてきて田の神となり、秋には再び山に戻るという信仰がある。すなわち、1つの神に山の神と田の神という2つの霊格を見ていることになる。農民に限らず日本では死者は山中の常世に行って祖霊となり子孫を見守るという信仰があり、農民にとっての山の神の実体は祖霊であるという説が有力である。正月にやってくる年神も山の神と同一視される。ほかに、山は農耕に欠かせない水の源であるということや、豊饒をもたらす神が遠くからやってくるという来訪神(客神・まれびとがみ)の信仰との関連もある。
猟師・木樵・炭焼きなどの山民にとっての山の神は、自分たちの仕事の場である山を守護する神である。農民の田の神のような去来の観念はなく、常にその山にいるとされる。この山の神は一年に12人の子を産むとされるなど、非常に生殖能力の強い神とされる。これは、山の神が山民にとっての産土神でもあったためであると考えられる。山民の山の神は禁忌に厳しいとされ、例えば祭の日(一般に12月12日、1月12日など12にまつわる日)は山の神が木の数を数えるとして、山に入ることが禁止されており、この日に山に入ると木の下敷きになって死んでしまうという。
また、女神であることから出産や月経の穢れを特に嫌うとされるほか、祭の日には女性の参加は許されてこなかった。山の神は醜女であるとする伝承もあり、自分より醜いものがあれば喜ぶとして、顔が醜いオコゼを山の神に供える習慣もある。なお、山岳神がなぜ海産魚のオコゼとむすびつくのかは不明で、「やまおこぜ」といって、魚類のほかに、貝類などをさす場合もある。マタギは古来より「やまおこぜ」の干物をお守りとして携帯したり、家に祀るなどしてきた。「Y」の様な三又の樹木には神が宿っているとして伐採を禁じ、その木を御神体として祭る風習もある。三又の木が女性の下半身を連想させるからともいわれるが、三又の木はそもそもバランスが悪いため伐採時に事故を起こすことが多く、注意を喚起するためともいわれている。
日本神話では大山祇神などが山の神として登場する。また、比叡山・松尾山の大山咋神、白山の白山比咩神など、特定の山に結びついた山の神もある

神社合祀令 一村一社を原則

 一九〇六(明治三十九)年に政府から出された神社合祀令とは、一村一社を原則として小さな社や祠を破壊して、他の神社に併合させるという政策である、神社合祀今は、神道の国共化政策として推し進められることになった・
 一八七一 (明治四)年の太政官布告によって、全国の神社は、宮社i府県社-郷社丿村社
-無格社の五段階に格付けされることとなった。伊勢皇大神宮を頂点に系列化されることと
なったのである。そして、一九〇六(明治三十九)年五月に、「府県郷社二対スル神饌幣帛
料ノ供進」に関する勅令が公布された。これは府県郡市町村が、供えものをできる神社の条
件を記すことで、無格社や小さな社は整理した方がいいという論拠を与えることとなってし
まった。そして、同年八月に「社寺合併並合併跡地譲与二関スル」勅令が公布されたのであ
る。
 それまで一つの自然村には、一つの産土神を祭る社があったのだが、急速な町村合併によ
って、二つ以上の産土社を持つ町村が生まれた。勅令は、各行政村ごとに一社を原則として、
その他の産土社をはじめとした、さまざまな小さな社や祠を統廃合してしまえと命令したの
である。その結果、一九〇六(明治三十九)年から一九一一 (明治四十四)年末までに、全
国でおよそ八万の村社が合併または廃止となった〔村上 一丸七〇 ニ八七〕。
 その施行は、各知事や各郡町村長に一任されたため、地方によって事情は違った。全国で
最も合併による破壊が進められたのが、伊勢神宮のある三重県であったが、それに次ぐのが
南方熊楠のいた和歌山であり、約五分の一にまで社は激減した。
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by okasusumu | 2011-06-27 09:54 | 山荘周辺の文化財
2011年 06月 20日

山荘周辺の文化財(1)  道祖神

山荘の西北100メートルのところにある。さすが高遠石工の故郷、巨大な自然石に見事な道祖神という文字が(ごつごつで読み取りにくいが)彫られている。小正月の日(1月15日)、どんな催しがあるのかと来てみたが、地域に子供が少ないためか、小正月行事のどんど焼きも、左義長も、小屋掛けも見られなかった。
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by okasusumu | 2011-06-20 11:02 | 山荘周辺の文化財