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信州かくれ里 伊那山荘

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2013年 05月 18日

高遠石工の源流

高遠石工その源流と旅稼ぎ          曽根原俊吉楼 
  
信州の石工について、その古い記録によると、武烈天皇の三年(五〇一)に信州
の石工が、築城のため大和に招かれている。古墳時代後期のことである。
   -私はかつて小著『貞治の石仏』にこんなことをしるした。

信州は日本の屋根である。重畳として連なる高い山脈と、その深い渓谷はいつ
も良質の石材を豊富に提供している。諏訪の輝石安山岩、駒ヶ根の閃緑岩、高遠
の輝緑岩、秦阜の花肖岩、更科の流紋岩、青木湖畔の石英閃長岩など、信州から産
出する石材を数えあげたらきりがない。 このように石材の宝庫である信州にお
いて、たくさんの石工が生まれたのは当然であろう。江戸時代、ここに深く根を
下ろした高遠石工が全国の各地に活躍することになったのも、そこには古墳時代
からの石工の伝統があったからである。 さて信州の石工が古墳時代の築城技術
の上に発展したとはいえ、これを直ちに高遠石工の源流と結びつけるにはやや難
点がないとはいえない。そこでとりあげてみたいのは『新編武蔵風土記稿』であ
る。これによると往古伊那郡より多くの石工が西多摩郡五日市町伊奈に移住した
ことが記録されている。
「伊奈村は郡の中ほどにありて秋留郷にす。村名の起所を尋ぬるに、往古信濃
伊奈郡より石工多く移り住みて、専ら業を広くせし故に村名をなせり。天正十八
年御入国の後江戸城石垣等の御用をつとむと云へり。されど今はその職を業とす
るものなし、江戸日本橋より行程十二里家数二百軒」とある。
 越後の石工大塚太良兵衛は、高遠石工の流れを汲む石工であるが、かれが転書
した『仏像秘法』によると、鎌倉時代すでに高遠石工が存在していることが書きと
められている。
 「石細工始ハ平家アツモリ墓印也。其後信州高遠ヨリトモ公御城イタシテヨリ東
33ヶ国ヲ御免成3700人門出也。ノキ三尺ハナレテ川一二尺ハナレテ石トル
皆ゴメンーーー」
 また石臼の研究家として知られている三輪茂雄氏は、石臼に関連して木曽義仲
の従者西仏坊の足どりを追っていくうちに、江州曲谷で西仏坊が信州より石工を
招いて石臼の製造をはじめたという史実を発見している。いまでも曲谷を訪ねる
と、村中のいたるところにごろごろと石臼が転がっているという。こんなことか
らいっても、鎌倉時代に高遠の石工が他国へ進出していたことがうなずけられる
と思う。
 郷土史家宮下一郎氏は『信濃路五号』において、高遠石工の源流は予想以上に
古い時代、すなわち中世初期以来としている。その根拠として、南北朝時代上伊
那郡大河原に建立された宗良親王の墓標である宝饉印塔をはじめ、東部地方にの
こされている同時代のいくつかの宝医印塔は何れも高遠石工の作であることをあ
げている。
 このようにみてくると、高遠石工の源流は遠く南北朝から鎌倉時代まで遡るこ
とができると思う。

そこで高遠石工の旅稼ぎを考える場合、通説では彼らが全国各地にその足跡を残
すようになったのは江戸時代に入ってからのことと言われている。特に元禄
以降は高遠藩の政策もあって旅稼ぎに出る者が急速に増えたと言える。
この点をさらに詳しく説明するならば元禄四年(1691年)3万3千石で
高遠藩主となった内藤氏は前藩主鳥居氏時代の所領6300余石を幕府領と
して引き上げられたため藩財政は極度に困窮した。これを救済する方策とし
て耕地面積の少ない山間部の農民に対しては、石工として旅稼ぎに出ること
を奨励した。
各郷に「石切目付」をおき、きびしく運上(税金)の取り立てを行なったのもそ
のためである。 また宗門帳の他に『他国旅稼御改帳』
『石切人別御改帳』などを作って代官に差し出していた。これらの内容については、
村によって多少の相違はあるが、概ね次のようなことが骨子となっている。
 1、旅稼ぎに出る者については、五人
   組や請人が責任をもって年貢を納
   め、また役勤めをする。
 2 稼ぎ先では、法度に反することは
   させない。
 3 年内に帰らぬ者あった場合は、そ
行方を詮議して届ける。
 4 田畑の耕作時には、家に帰って作
付けすることを妻子に申し付ける。
 5 秋不作であっても年貢を引くこと
を願い出ない。
これらの実行については当人はもちろん五人組や請け人に連帯責任を
負わせていることがよくわかる。 石工の旅稼ぎに直接かかわりはないが、
高遠藩の過酷な政策と関連して知られている事件に、文政五年(一八二二)に起き
た「興津騒動」がある。 男子十五歳以上六十歳までのものは一
口‐に草桂二足宛、女子は毎月一軒より木綿一反を上納せよ、というもので、これ
に反対して民衆たちが蜂起したのがこの騒動である。これ一つみても石工への圧
制が思いやられるであろう。 文政八年(一八二五)における高遠藩の
『お取箇外物帖』による諸税は下表のとおりであるが、その内石工の運上が他の職
種に比べていかに大きな財源になっていたか、山間部の大野谷、藤沢郷などの実
際をみてほしい。
 石工の旅稼ぎの行先は長野県内が最も多く、岐阜、愛知、山梨、神奈川、群馬
埼玉、栃木、福島、山形等中部地方から関東、東北地方の各地に及んでいる。
 高遠領のうちで一番出稼ぎの多い入野谷、藤沢の両郷における文久二年(一八
六二)の出稼ぎ先と人数は次の通りである。
  信州 129人  飛州  1人
  上州  45人  甲州 97人
  武州  10人  駿州  6人
  濃州  31人  相州 14人
  三州   2人  奥州  2人
          計  337人
     (入野谷郷石切目付平蔵記録

先にも触れたが三輪茂雄氏の石臼の研究からしても高遠地方に見られる反り三角
の手かけのある石臼は高遠石工の作として同形式のものが北信、新潟および会津
地方にあることが確認されている。
 しかし三輪氏は、反り一二角の手かけ穴のある石臼は、これを即高遠石工の作と
決めつけることはできない、筆者の仮定にすぎないとしているが、高遠石工の行
動範囲を追っている私にとっては、たとえそれが仮定にすぎないとしても興味は
尽きない。
 石工の行動範囲の広い例としては、守屋貞治〔明和二年(一七六五)~天保一二年
二八一二二)〕の足跡がある。貞治は藤沢郷塩供村出身の名工で、在世中一三二六林の
石仏を造立したことで知られている。その作品の分布をみると、長野県内では地
元高遠をはじめ、駒ヶ根、宮田、箕輪、木曽、諏訪、松本など、県外では西は岐
阜、愛知、一二重、兵庫、山口、東は群馬、山梨、埼玉、東京、神奈川の各都県にま
たがっている。
 かれには『石仏菩薩細工』という作品の記録がのこされていたため、その作品
の大部分は発見されているが、一部まだ未発見のものがある。いまとちかって交
通不便であった時代において、どうしてこのような広範囲にわたる活動ができた
のであろうか。もちろん貞治の彫技が優れていたことはいうまでもないが、決定
的な理由をあげるならば、それは諏訪温泉寺の願王和尚の導きがあったからであ
る。当時願王和尚は地蔵信仰をひろめるため全国の各地を行脚しているが、その
先々において、実弟実門の仏画と共に貞治の地蔵菩薩像の造立を積極的に薦めて
いる。貞治仏に願王和尚の讃や偶の刻銘がみられるのもそのためである。

名工貞治・吉弥とその周辺

高遠石工が他国に進出して活躍したことについて、改めてここに説明を要しな
いと思うが、その中でも特筆すべきものについて述べてみたい。
 守屋貞治については、さきにもしるした通り、生涯において三三六鉢の石仏を
造立したその優れた彫技は巨匠の名に恥じない。
 かれの作品には建福寺の願王地蔵菩薩像、勝間大橋の不動明王像、光前寺の一二
陀羅尼塔弁四天王、温泉寺の三十三ヶ所観音像など繊細優美な作品が多い。 。
 貞治の弟子渋谷藤兵衛は、貞治らと共に甲州海岸寺の百観音像を刻んでいるが、
かれの代表作としては美篤洞泉寺の宝箇印塔をあげなければなるまい。また箕輪
町地蔵堂の六地蔵菩薩像を造った清水六左衛門、長野市往生寺の地蔵菩薩像を造
った小笠原政平、大町市大黒町の大黒天像を造った伊藤徳十、同留十なども知ら
れた石工である。
 異端の石工として最近注目されているのは藤森吉弥で、上伊那郡木下の出身で
ある。かれの作品は長野県内では、松本において一二鉢の道祖神をのこしているに
過ぎないが、埼玉県秩父郡小鹿野町の観音山に、全長3.08m台石を入れると4m余
の巨大なる仁王像を造立している。高遠石工の作品で県の文化財に指定されている
のはこの一鉢だけである。
 当時秩父地方においては、吉弥の腕を評して「世界一か乞食の吉弥、日本一が
車屋の初、関東一が日尾の30」と語りつがれていたとか、かれの瓢逸な人柄と
妙技のほどが偲ばれる。 吉弥は群馬県多野郡吉井の専福寺で、明治八年
(一八七五)六十四歳で病没している。。先年私は高崎の知人から同地方にのこる高
遠石工の氏名を刻んだ台石の写真を何枚かいただいた。その中で原市太子堂にある台
石に「藤森吉弥」の氏名のあることを発見した。吉弥の消息は、いままで松本と秩父
地方にかぎられていたが、この写真によって原市付近においても活躍していたことが
わかり、薄幸だったかれの半生を思わずにはいられなかった。

他国に広がった石工たち

伊東市在住の木村博氏は、高遠石工の山形における活動を調べているが、遺作
品として、
 宝永四年(一七〇七) 山形市松原地蔵
   供養  中村新兵衛・中村武兵衛
 宝永五年(一七〇八) 上山市永野
    (性運院様石塔) 信濃石切四人
 享保五年二七二〇) 山形市松原阿弥
   陀仏        中村武兵衛
 享保十年(一七二五) 上山市湯坂巳待
   供養塔       中村武兵衛
 享保二十年こ七三五) 上山市弁天灯
   龍台座  中村武兵衛・中村惣七
 延享五年(一七四八) 山形市山家(虚
   空蔵堂・御坂)  権右衛門外九名
 安永6年1794) 山形市霞城(御
本丸北不明石組帳)仁兵衛以下十一二名
 などをあげている。
これらの石工は単独で山形まで来たとは思われない。高遠ご万一二千石から一躍
山形二十万石の城主として転封した保科正之に従って来だのではないかと結論づ
けている。また木村氏は、伊豆に高遠石工の墓を、一二島市徳倉において発見し
ているか、この石工は信州高遠荊口村住人北原数右衛門であることを確認してい
る。同地の歓喜寺の過去帳によれば「寛政八年十月三日一乗法寿信士信州高遠」と
しるされている。
相州の高遠石工 

高遠石工の墓といえばすぐ頭に浮かぶのは、神奈川県伊勢原市日向の旧家鍛代
家の墓地内にある高遠石工の墓である。北原通男氏の調査によれば9基ある墓
標は文化4年から天保13年(一八四一)までの三十五年間に建てられたものである。
 現在日向には石屋を業とするものは八戸あり、うち四戸は秋山姓を名乗り、高
遠藤沢の出身であるという。 高崎付近にのこる高遠石工の作品について、新井南花、
長井進氏提供の資料によれば、石工162人、石造品209に及んでいる。主なる作
品と作者をあげると次の通りである。
 宝置印塔    清水彦之丞 田中忠左衛門
        赤羽文蔵
 地蔵如意輪観王 保科増右衛門
 灯龍鳥居    保科徳次郎 赤羽三右衛門
 二十三夜塔   小池菊蔵 小村四郎兵衛
 常夜塔     藤沢才之助 北原政吉
        守屋1 兵衛
 相模にのこる高遠石工の作品は、飯田
孝、小沢幹氏提供の資料により主なるも
のをあげてみることにしたい。
 地蔵 題目塔  伊藤甚助
 道標  大石荘蔵・大石器蔵
 水鉢 鳥居 頼朝開基の碑
        伊藤新八
海衆塔   北原藤右衛門
宝飯印塔題目塔  向山弥市
 庚申塔       秋山甚四郎
 宇賀神像      長七郎
 大盤若塔      伊藤宇吉
 次に駿河にのこる高遠石工の作品につ
いて、杉山良雄氏の調査より主なるもの
を拾ってみると左記の通りである。
 宝塔     池上七右衛門
 地蔵     北原善吉 池上市郎兵衛
 七観音    北原佐吉
 石灯龍    藤沢又左衛門 伊藤惣右衛門
       大窪佐衛門 北原藤八
 題目塔    清左衛門 沖右衛門
 宗祇句碑   北原孫八
     (以上、『高遠の石工』による)
 私はかつて越後の六日町で、大塚太良兵衛の石仏を調査したことがあるが、太
良兵衛の父吉右衛門は信州上伊那郡木下の出身で、藤森吉弥と同郷である。
 六日町原村の鎮守は小高い山頂にあるが、この石段をつくったのは高遠石工の
吉右衛門、唇吉、勘左衛門、弥右衛門、利八であり、また「小平尾の石工」のも
とを作ったのも高遠石工で同村の鎮守の石鳥居は安永4年9月高遠山室村の石工
庄右衛門が棟梁で6人で刻んだものである、と山本幸一氏は発表している。
 福島県仝津の関戸麓山神社にある安永3年造立の衣冠装束の石像の台座に信州
高遠石工中山太良左衛位、藤原為忠と刻印があると言う。
 この衣冠束帯のみごとな作品は、高遠石工の優れた彫技を示すものとして注目
したい。

地蔵峠と仏山峠の石仏
中山暉雲は信州小県郡東部町から、地蔵峠を越えて群馬県の湯沢温泉にいたる
湯道の百肺観音を造ったことで知られてる伊那出身の石工である。一番は東部
町の新張という部落にあり、百番の観音は湯沢温泉にあるという。峠越えの湯道
はコーキロで、観音に導かれて湯治場にたどりつくということで、当時は庶民の
さかんな信仰を集めていた。
 暉雲は江戸城の石垣修復に参加した石工で、明治十年(一八七七)一番観音を刻
んだとき病床に伏す身となったが、その後は自分の娘を指導しながら観音を刻ま
せたという伝説がある。 百観音の作風を調べた人の話によると、一番の観音より
も、後から刻んだ観音のがどことなく女性的で弱々しい感しがするというのも娘に
彫らせたためだろうか。石工といえば男子にかぎられていたが、当時女性の石工が
いたのだろうか。石切の稼ぎが大きかっただけに考えられないことではない。
 次の話は日光市高橋勝利氏から聞いた話である。゛
 野州と常州との国境仏山峠にある地蔵尊は、高遠石工の作だと伝えられている。
昔、仏山峠に四朗左衛門という悪党が出没して峠を越す旅人を殺しては金品をか
すめていた。一人娘のおせんが、なんとかして父の悪事をやめさせたいと
念じ、巡礼姿に身をやつして峠道にさしかかった。四郎左衛門はその巡礼をみて、
自分の娘とも知らずに殺し、ふところを探すと父をいさめる娘の書き置きがあっ
た。四郎左衛門は前非を悔い改め、それからは仏門に入り、峠を越える旅人のた
めに朝日堂、夕日堂を建立して、念仏三昧の日々を送ったという。
 峠の石地蔵は「おせん」の供養に建てられたもので、峠から四キロほど離れた
上小貫の山中で刻み、村人たちによって峠の上まで引き上げられたものである。
この時使用した引き綱は、女の髪の毛を結び合わせたもので、いまでも大切に保
管されているという。

石工を研究する人びと
以上、高遠石工の旅稼ぎの実態についていくつかの事例をあげたわけであるが、
これらは作者の銘がわかっているもの、あるいは伝承としてのこっているものに
ついて述べたものである。
 したがって無名の石工による作品を数えあげたなら、そこには何千何万という
およそ見当もつかないような大きな数字が浮かび上がってくるにちがいない。高
遠の石工たちをして藩のきびしい統制にもめげず、その制作意欲をかりたてたも
のは、かれらの忍耐強さであり、進取の気性である。さらにいえることは、伝統の
技術ではないだろうか。
 近年、高遠石工の研究は地元ばかりでなく、県外においてもその実態が明らか
にされつつあることはよろこばしい。特に守屋貞治の作品については、多くの人
たちの共感を呼んで地道な研究が続けられている。これらの中には東京の若い夫
妻で、二人そろって貞治の石仏探しに車で各地を飛び廻っている人もいる。貞治
仏の写真展を開いたり「貞治の研究学仝」を作りたいというのもこの人である。
 貞治の初期の作風は、いまのところはっきりしていないが、これを絵画的手法
によってつかんでみたいという研究者がいる。この人は国鉄の職員である。
 また貞治の『石仏菩薩細工』の記録にのこる未発見の十一面観世音菩薩につい
て、その願主布屋作衛門の「布屋」とう屋号を追求することによって発見の手
がかりをつかもうとしている主婦もいる。その4 石仏の研究者は多士済々である。
 信綴の高遠は小さな城下町ではあるが、そこには二千五百 の石仏がのこされて
いるという。そればかりではない。
  たかとほは山裾のまち古きまちゆきかふ子等のうつくしき町
 田山花袋が詠んだ情緒のある町でもある。だがいまも高遠城跡の桜の花や、生
島新五郎との悲恋のヒロイン絵島の墓に思いを寄せる人はあっても、この町がか
つては全国的に名声を高めた高遠石工の揺藍の地であったことを知る者はごくま
れである。
 現代はめまぐるしい時代であるという。
しかし、高遠を訪ねる機会があったら、建福寺の石仏を鑑賞し、三峯川ぞいにある閃
緑岩の採石場を探るひと時をもってほしいと思う。

  (日本の石仏 昭和54年㈱太陽社)

by okasusumu | 2013-05-18 11:48 | 長谷の自然と歴史


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