信州かくれ里 伊那山荘

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2013年 05月 19日

黒河内の木地師

諏訪の入野谷系の木地師
                       小林増巳

木地師は、一般に「木地屋」と呼んでいるが、諏訪地方では、ろくろ屋(轆轤)、ごき屋(御
木)などと呼ぶ向きもある。
に木時師は周知のように、山中の適材を選んで膳、椀、血、鉢、折敷類の木地をつくる職業で、古来同家系または異家族が集団して、良材を求めて全国各地に栄えた、と言われている。そしてその歴史は平安時代に遡るという。一説によれば、嘉祥三年(八五〇)三月、仁明天皇が崩御され、皇太子道康親王が第55代文徳天皇として即位された。執政は藤原良房で、その妻女は嵯峨天皇の皇女、潔姫であった。潔姫の生んだ女子、明子は、文徳天皇の妃となり、惟仁親王を生んだ。しかるに文徳天皇は、紀名虎の女、静子の腹に、惟喬親王をもうけていた。親王は外腹とはいえ長子であり、賢明のきこえが高かったので、文徳天皇は惟喬親王を皇太子にと望まれたが、執政良房らの策略で、その意志は果たせず、生後九ヵ月の二男惟仁親王が東宮になった。

貞観十四年(八七二)僧籍にあった惟(これ)喬(たか)親王は都を出て近江国愛智郡蛭谷に世を忍ぶ身となられた。随行者の主なる者は、小椋大臣実秀、大蔵郷惟仲、堀川中納言等であったという。隠棲のつれづれに親王は、ふと拾われた樫の実で椀の型彫を発明されたという。これが木地(素彫)技術の始めとなったものと伝えるが、親王は寛平九年(八九七)五十四歳をもって薨じ(こうじ)られた。その後親土の従者たちが木地仕事を生活の拠りどころとし、やがて全国にその技術が広められ、これが「木地師」発祥の源となったというのである。
 惟喬親王は蛭谷の小野に住まわれたので俗里では、小野宮と呼ばれた。 その後全国の木地師たちはいずれも小野宮従者(公卿)の一族と称し、その家紋に~六弁の菊花紳を川い。彼らの職相を丈徳天皇の皇子、小野宮帷喬親王とするゆ由諸書き「御倫旨」なる一巻を所持し、「西ハ櫓擢ノ立ル程、東ハ駒ノ蹄ノ通ウ程」と制限されることなく全国の山中を稼ぎ歩き、その一族が、鎌倉、室町、江戸初期を通じてその特権を認められた生活を維持できたのであるから、その根拠は確かなものであったに相違ないと考えられる。
 いま所々に残る文書記録によれば、明治四年までの「宗門人別帳」は、惟喬親王の御廟と称する蛭谷の筒井八幡宮別当寺・帰雲庵と、蛭谷の隣地君ケ畑の太皇明神の別当寺・金龍寺の両寺でその手続を行ない、道中手形もここから出し、また「会符」という菊紋をつけた木札に「諸役御免」、裏に「筒井八幡宮」と書したものを立てて荷物を運搬し、江戸時代には道中奉行もこれを認めていたから、関所でも、問屋場でも大名の行列同様大切に扱ったといわれている。 また木地師の家で所持する文書類に、「公文書御用」とあるのは筒井八幡宮社務所、「高椋(倉)御所御用」とあるのは太皇明神社務所ということである。
 現在長野県内で、木地師の後裔と称する家系の最も多い地域は、木曽郡と上・下伊那郡といわれている。

木地師小倉(椋)家
ここで私が述べようとするのは、長野県諏訪郡富士見町内に住む、小倉上男家を中心とした、入野谷系木地師の話である。
 南アルプスと中央アルプスが落ち合う盆地が、上・下伊那郡である。そして南アルプスの西北端が、諏訪湖から流れ出し伊那盆地を縦貫二分する天竜川に突き当たるおよそ八〇キロの一大稜線、これが諏訪郡と上伊那郡の郡界である。
この稜線は平均標高一九〇〇メートルで、両郡を結ぶ峠道は新旧およそ十五ヵ所ほど数えられる。両郡は古来その境があってないほどの交流の歴史があり、『続日本紀』によれば、養老五年(七二こから天平三年(七三一)までの十ヵ年間「諏訪国」が置かれた時、その西域はおよそ上伊那全域に及んだとされる。
 周知のように南アルプスは山深く、いま何方から入山しても車から下りて頂上線の走破に至るまで、健脚、好天候で一週間を要するといわれるほどである。もちろん北アルプスに比べ温暖でもあり、古来良材の産地として知られている。
 当主小倉上男氏によれば、昭和十年頃のこと、父鶴太郎さんが、次のように言っていたそうである。先祖は今からおよそ百八十年ほど前、上伊那郡入野谷郷の黒河内村を出て御所平峠を越え、ここ(諏訪郡の南端、横吹村)に落ちついたが、その頃すでに琥短仕事はせず、もっぱら屋根板  剥ぎや、炭焼、樵などで暮しをたててきたと言い伝えられている。小倉上男氏の祖先と相前後して入野谷郷からこの地に移住した木地師仲間が他に二軒あった。
 一軒は、大蔵索之さんの祖先で、この家は山室谷を経て隣の花場集落に落ちついたが、三一四代後の素之さんが、昭和三十五年に他家に嫁いだ姉と妹さんを地元に残して、南アメリカに移住した。いま一軒は、小椋和男さんの祖先である。小椋さんの祖先は、諏訪郡と山梨県境に位置する
当時の、甲州道中(現国道二〇号線)蔦木宿に落ちついた。先代は小椋幸造先生で、筆者が小学生の頃、地元落合小学校の訓導をしていた。幸造先生の未ご人、ふくみさんの話によると、本家は近年、一族で東京に移住してしまったが、小椋家の家宝として菊花紋のついた立派な書箱があり、御倫旨や、筒井八幡宮公文書などの文書がその中に入っていたという。
 さらに大蔵素之さんの住んでいた花場集落には、葛城姓を名乗る家が現在四軒あるが、この一族の墓石には、代々十六弁の菊花紋が刻まれている。明治維新、行政上の諸法改正で、県庁から調査があり、小倉、大蔵、小椋の三軒は上伊那郡人野谷郷の黒河内村か
ら移住し、代々の身分は、木地師であると申告したそうであるが、葛城氏は平家の落人であり、その詳しい出自は不明である旨申告したと伝えている。この時点でいずれも、十六弁菊花紋は、天皇家の正紋である故、今後一切用いてはならない、と申し渡されたそうである。
そもそも木地師一族は、表紋に十六弁菊花紋、裏紋は丸に桐紋を用いる習わしとされていた。しかし明治に禁止されて以後は、。桐紋を表紋に改め用いているという。
 さてそこで、小倉上男さんの話を続けてみると、祖先の墓碑には菊花紋があって、元治二年(一八六五)没、賢宗奏法居士、俗名小椋作兵衛意正とあったが、明治五年宗門人別帳から戸籍簿に変わった時、小椋の椋を、倉に宛字間違いされ、その後気づいて、村役場に訂正方を申し入れたが駄目だったという。
 また、諏訪郡内には同時期頃伊那谷から来たという木地職が他にもおり、それは平野村(現岡谷市)上浜の大蔵直次郎、下諏訪町の大蔵秀弥、上諏訪町(現諏訪市)大蔵正郎、同・大蔵次郎、同・小椋忠太郎氏等の五家族であったことが、昭和六年諏訪史談会発行の「史跡踏査要項」にも記されている。
 明治の御維新で、職業は誰でも自由となり、木地師の旧来からの特権も薄れていった。白木地類も塗物専業だった「漆屋」が直接鏡輔師を抱えた職人仕事から企業化の時代となった。企業系列から洩れた木地職人は兼業や転業せざるを得なくなり、ある者は柚や樵となり、またある者は炭焼、板剥ぎなどを生業としたという。
 元々土地を耕して領主に年貢を納めた実績がなかったため、維新の地租改正時には一坪の土地の所有も認められず、その屋敷地すらほとんど他人からの借地であったという。
 小倉上男さんの曽祖父等もまたそのような境遇でさんざん苦労の末、追々貯えもでき少しずつ地所を手に入れて農業もするようになった。しかし父鶴太郎が日露戦役に従軍中、祖父弥三郎がバクチ(賭博)に手をだし、山仕事で苦労してたくわえた山林などの多くを失ったという。
横吹村は、富士川の上流釜無川にそそぐ支流、武知川の狭い河畔にある十数戸の小村落であったが、明治七年の秋に他の十ヵ村とともに合併して「富士見村」となった。さらに戦後の町村合併促進法で、諏訪郡南部の、境、落合、本郷の三ヵ村と合
併して「富士見町」となった。もちろんこの町も例外ではなく機械化農業へと変貌する中で、小規校農家は老人農業あるいは、主婦農業となって、青壮年層はサラリーマンに転業した。さらに生活は近代化されて「木地師」とは何なのか、今では尋ねてくれる人も少なく、やがて家宝の文書すらも散逸して、その家系の伝えは消え去り、石塔に残る菊花紋のいわれも不明となるかも知れない。すでにいま、小倉上男さんから聞く、父からという伝え聞きの中にも、祖先がどのような道具を用いて仕事をしていたのかさえ定かではない、と語るのである。
 一般的にも近々百年前の事柄が今日正確に伝わっている例はきわめて少なくなっている。
さてそれでは、富士見町内にかつて移住してきた木地師たちの本拠、入野谷郷の黒河内村とは、木地師に関して一体どんな村だったのか、探ってみることにしよう。

入野谷郷黒河内村

明治初年発行の『長野県市町村誌』によれば、明治八年合併して「長谷村」となった黒河内、溝口、市野瀬、浦など南アルプス仙丈岳の南渓谷を水源とする三峰川の中流に点在する小村落を、総称して″入野谷郷″と呼んできたというが、その初めは天正年間(十六世紀)と伝えている。 またこの人野谷郷は、源平合戦後の平家落人潜伏の地と伝え、数々の証拠資料や遺跡が残っている土地でもある。
 旧黒河内村には、平安末期に、黒河内二郎義純が居り、諏訪上下社の社領に属してこの地を支配していたという。
 吉野朝期には、黒河内朝家が、南朝の皇子信濃宮宗良親主に従ってここを支配した。その後天文年中には、黒河内朝光が諏訪頼重の旗下で支配したが、弘治二年(一五五六)武田信玄に亡ぼされて、天正の頃は、信玄の子仁科五郎信盛が領した。天正十年(一五二八)武田氏が亡ぶや、保科弾正の領するところとなったが、元禄年間には徳川氏の咆轄領となり、その後高遠城主となった内藤氏の支配下に置かれた。
内藤氏の時代には、三峰川上流の山々を「御立山」(藩林)に指定した。そして黒河内村は、
市野瀬、浦の両村とともに「木師(きまま)郷(ごう)」に定められたという。
 木地郷の村人は年々「木地役」を上納して本来の木地物のほか、薪、炭、建家材などを生産し、売買する山稼ぎが許されていたという。
上伊那郡郷土館(高遠町)資料によれば、元禄三年(一六九〇)十一月日付で「黒河内村、浦材、市野瀬村三ヶ村儀者、前々ヨリ木師郷二相極侯二付、木師役致上納、出稼、薪、家材木共二売買仕来申候(後略)」とある。高遠藩では、この木師郷取締役として、旧族の黒河内氏を任命し、入野谷郷三ヵ村と、市野瀬村の技郷、中尾、杉島の二ヵ村を加えた五ヵ村の「木改役」を世襲させ、給料として年闇米三十石を与えたという。 この職分は、山の巡視、樵の世話、材木の鉄砲下し(川流し)など厳しく取締まるものだったようである。
 前記郷土館資料によれば、元禄三年(一六九〇)六月の「木師御免許記札渡帳」に、木木師九人、助水師七十四人に、木師免許札が渡され「此ノ札ヲ以テ三峰川入山、黒川入出稼自有可仕」とある。しかし天保七年(一八三六)六月のものに、黒河内村方三役が高遠藩代官に出した「轆轤運上延納願」には、「木地師共、長々御厚恩二相成罷有候所、去七月ヨリ木地下値二相成候、冬分ヨリ当春二至リー向飯田表へ売不中候間、致方無之罷有候処、冬ヨリ春迄、石灰、炭焼致シ、此節野呂川山へ、持子、日雇等ソレソレ参リ、年寄子供、木屋番仕罷居候二付、甚難渋仕紋、依之植輸御運上之所、木地売紋迄御赦免被成候様奉願上候」とある。この資料の内容をみる限り、当時の人野谷木地郷の人々の生活は、決して安穏たるものではなかったことが窺えるのである。
筒井八幡の職頭書に示される「西は櫓耀ノ立ツル程、東は駒ノ蹄ノ通ル程」と、全国無制限に上納金なしで稼ぎ歩けた木地師の特権生活は、どうやら室町末期で終わっていたかと思われるのである。
余談であるが、文政六年(一八二三)内藤藩(高遠)に起きた「興津騒動」はこの地方では有名である。当時藩の郡代で元締役を兼ねていた興津紋左衛門は、藩主江戸詰の留守中、藩財政窮乏をたて直す一策として、百姓中十五歳以上の男子は毎日草鮭一足宛、女子は木綿一反を上納すべし、と命じたことから一揆が起こり、結局反対派から上訴されて、在府の藩主から追放され、晩年を諏訪の池袋村で寺小屋の師匠をしながら子息郡治兵衛とともにその生涯を終わっている。
 内藤藩が人野谷木地郷の村人に「運上金」という課税措置をとり、村人は収益乏しく納税でき難いとし「轆轤運ヒ延納願」を出したのは、興津騒動から十三年目である。
それから百二十三年後、入野谷郷の木師取締役を務めた黒河内氏末裔の家は、三峰川を堰止める美和ダムの建設で湖底に水没する運命となり、昭和三十四年集落の一部とともに他に移住した。その際黒河内家に旧蔵されていた前記の資料など約一万点が上伊那郷土館に寄託され、そして公開された。

入野谷木地郷からの移住
さて、御所平峠を越えて諏訪郡南部、釜無山の谷間いに点在する小集落に移住した入野谷系木地師の面々は、それぞれ今からおよそ二百三十数年前に住み馴れた三峰川河畔の村を後にしたと伝えている。天保七年(一八三六)記の黒河内文書の内容や、興津騒動にみられる内藤藩の窮乏した財政事情は、まさに、天下御免ともいうべき自由業、木地師一族が住み馴れた土地を捨てざるを得なかった前夜の様相を、物語ってはいないだろうか。
そして、長野県上伊那郡入野谷郷に一時期を住み馴れ、そこを古里とも思う、小倉、大蔵、小椋の一族のたどった運命は、平安時代末に近江国愛智郡蛭谷から全国に散って行った木地師全体の運命を象徴するものではなかろうか。
小倉上男さんは近年武知河畔の横吹から町内の白樺団地に越され、夫婦二人で静かに老後生活を送っている。住居近くに新墓地を入手され、先祖の墓石を近々そこへ移転の運びとおっしやりながら、遠い祖先にまつわる木地師の聞きとりに感慨深げに答えられたのであった。




木地師のふるさと 近江・小椋谷
    (山を忘れた日本人  石川徹也  彩流社)

 二〇〇七年七月、名神高速道路八日市インターから国道四二I号線を東進し、鈴鹿山脈方
面へと向かう。永源寺ダム貯水池を越えてしばらくすると、政所という地点に至り、そこか
ら県道多賀永源寺線を御池川沿いに北上していく。姪谷渠落(滋賀県東近江市永源寺町)は。
通称小椋谷の車がようやく交互交通山道の途中にあった 。山の斜面を少しばかり切り取って造成したわずかばかり土地に少しばかりの家が寄り添うように建っていた
 小椋谷は、全国の木地師の発祥の地とされ、近世にはこことさらに山奥の君ヶ畑集落に全
国の木地師たちを保護・統括する支配所が置かれた。
 木地師は、トチやブナ、ヶヤキなどの木材を伐採し、轆轤と呼ばれる特殊な工具を使って、
椀や盆など円形の木地を作る職人のことで、轆轤師、木地屋とも呼ばれた。
 ほとんどの木地師は、人里離れた深山に入り込んで、良材のある間はその山で生活しなが
ら仕事をし、めぼしい材がなくなると家族全員で新しい山へと移住していった。農民のよう
な定住型の生活形態ではなく、漂泊民であった。
 木地師は、律令時代は轆轤工と呼ばれて、朝廷や大社寺に所属していたが、中世に入ると
轆轤師と呼称も変わり、荘園や社寺、戦国大名の保護の下で全国各地で活動していた痕跡が
みられるようになる。そして、近世に入ると製品も大衆化して木地業は繁栄していった。
 蛭谷には、筒井神社が明治初めごろに、北の多賀町境の筒井峠から遷宮された。元々蛭谷
の集落は筒井峠にあった。この筒井神社の元社務所が木地師資料館となっている。だれもい
ないので、近くの道場に行くと、集落の住民とおぼしき人たちが数人話し込んでいる。目の
あった初老の男性に資料館を見たいというと、「わかりました」と席を立って案内を買って
くれた。
 自治会長の小椋一衛さん(一九四二年生まれ)である。「七、八件は残っているが定住し
ているのは三件だけ。あとは週末だけ来たりして別荘的に使っているようです」と小椋さん
は話した。廃村の淵にある「限界」集落である。
 資料館の中には、こけしや茶碗などの製品をはじめ、古文書が何点も陳列されていた。筒
井情櫨師の職頭が日本中を自由に通行できる権利を認めた平安時代の朱雀天皇による綸旨や、
織田信長が轆轤師の諸役免除を認めた免許状、特定の居住地を持たない木地師のために、小
椋谷の支配所・寺院が木地師の身元を保障するために発行した宗門手形や往来手形などがあ
る。
 これらは、小椋谷の二つの集落が、全国の木地師たちを統括していたことを示す貴重な資
料なのである。江戸時代、蛭谷の筒井公文所と君ヶ畑の高松御所が、そうした木地師たちを
統括する支配所(役所)であった。
 筒井公文所は、筒井峠にあった筒井八幡宮の神主大岩氏と帰雲庵(臨済宗永源寺派)の住
職が中心となって運営されていた。一方、君ヶ畑の支配所は、天皇大明神の年番神主と金龍
寺(曹洞宗永平寺派)の住職が中心となって運営された。
 全国に散らばる木地師たちの保護・統括のため、蛭谷と君ヶ畑の支配所役人はそれぞれ全
国の木地師を訪ね歩いて、自分たちの支配する木地師の確認作業を行った。「氏子狩り」と
呼ばれた活動によって木地師の確認を終えると支配所から神札や鑑札、希望者にはお墨付きと称する天皇の綸旨や昔の為政者による免許状の写しなどを配布した。お墨付きには税の免除や通行の自由など、木地師の特権を認めた内容が認められていた。お墨付きを所持することで同業者集団の中でも代表的な立場を示すことが出来たと言う。
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by okasusumu | 2013-05-19 15:02 | 長谷の自然と歴史


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