2013年 05月 19日
伊那谷の木地師の墓 竹入弘元 信濃は山国であるから、山の資源を活用した産業が営まれる。木地師の活動が信濃の一帯で見られたのはきわめて自然である。南信濃の伊那について見ると、木地師が山に寵って木を切り、器を作ったのはいつからか、はっきりしないが、多分近世初期ころからで、氏子狩資料によって裏付けられるのは正徳・宝永年間、十八世紀初期以後である。上伊那では駒ヶ根市中沢の奥、四徳、高遠町長谷村の奥、辰野町横川の奥、その他限られた地域に過ぎない。下伊那地方はずっと広範囲にわたる。根羽村や遠山地方のような愛知県や静岡県につながる山岳地帯が広がっていて、木地師の活動の場に恵まれていたといえよう。ここでは、幕末・明治に伊那谷で活動した木地師について、墓碑を通して述べてみたいと思う。 上伊那地区の墓碑 上伊那郡辰野町横川 辰野町大字横川の奥、三級の滝手前、十二洞入口の路傍に木地師の墓がある。ここに至るには、JR中央線の信濃川島駅から横川川に沿って、弧を描く横川谷を遡ること約一一キロ、人家がとだえてなおしばらく上った山の中である。木地師の墓七基八入と名号碑一基とがIカ所に並んでいる。この一群は、昭和四十六年二月十七日付で、町文化財に指定されている。これを没年(あるいは建立年)順に列挙する。 A 別山智伝信女位 小椋竜八妻 文化七庚午(一八一〇)八月十七日 B 少屋妙林信女位 吉右衛門母 文化七庚午九月七日 C (菊花紋)黄林恵菊信女位 小椋和平娘 文化七庚午九月二十五日 D 真性妙空信女位 江州出木地師小椋藤右衛門妻 文化八辛未二力初六日 E (菊花紋)寂室自照信女位 江州出木地師小椋太平妻 文化九中歳九月八日 F (菊花紋)無外是宗信士位 五郎左衛門父 俗名大蔵源六 文化十三子十一月十二日 桃林童女 五郎左衛門娘 文化十四丑年三月十六日 G 、菊化紋。宝夙妙珍~々位 へ無銘) H 南無阿弥陀仏(名号碑) 施主江州出木地師 天保二辛卯(一八三一)五月 これらの墓石を見て感じることを次に記す。 男子はFの五郎左衛門父、俗名大蔵源六ただ一人で、他の七人はすべて女子である。なぜ女子ばかりなのか。 期間は文化七年(一八一〇)から文化十四年まで八年間だけである。名号碑建立の天保二年まででも僅か二十年にすぎない。姓はACDEの四名が小椋で、Fの二名が大蔵であることが知られる。江州出木地師であることがDE二基に書かれている。文化七年に三名もなくなっているのには何か原因があろう。たとえば流行病とか。 ところで、横川の門前地区には瑞光寺という臨済宗の古い寺がある。数度の火災で古い過去帳はないが、享保年間からのものは整理されている。そしてこの谷の奥に住んで木地を作っていた木地師たちは、その死亡に当たって当寺の世話になっていたと見えて過去帳に多数記載されている。こういうことは木地師としては珍しい事例ではあるまいか。そこで、過去帳に基づいてこの土地で死亡している木地師本人およびその家族の年次別、男女別一覧表を作ってみると、次のようである(表―)。 これによると、江戸時代中後期の享保十六年から文政十三年に至る二十九年間(元文四年から文化六年まで七十一年問空白)にこの地で五十一人の死亡が記録されている。これから推測しても相当多くの木地師たちが住んでいたと思われる。 また死亡者数を比較すると、過去帳より墓碑の方が毀かに少ないことも知られる。文化十四年には、過去帳の四人に対し、墓碑は一人のみである。そのへんの比較のため、表2を作ってみた。ただし鵬吽はひへ化以前と以後の長い期聞のものが欠けている。ないということは造られなかったのか、それとも幾基かは造られたけれど、ここに集めて ないということか、不明であるが、いずれにしても実際の死亡数と墓碑の数とでは、墓碑の方が逼かに少ないことは確かで、このことから、今日私たちの目に触れるこ とのできる墓碑の背景に非常に大勢の木地師が存在したと考えてよいと思われる。 ケヤキ・トチなどの木を削って、おわん・お盆などの木地を作った木地師が横川川奥地にいつ頃から住んだかは必ずしもはっきりしないが、江戸時代中期には長谷村の奥方面 から移り住んだことが確実で、文化・文政頃随分賑ったが、天保二年(一八三一)に至ると原木の減少や悪病の流行などが原因で、この地をひき払って他に移った。その際、横川川のあちこちの洞にあった墓碑を集め、名号碑を建立して供養した。移った先は中田切川の奥地と思われるという(参考・宮下慶正著『信濃の木地師』。以下この本に負うところが多い)。 伊那市西町、長桂寺墓地 伊那市西町の長桂寺裏の墓地のうち、小椋一美家墓地に菊花紋を伴う木地師の墓碑 一基と十三仏の碑がある。 ― (菊花紋陰刻)徳山浄隣居士 慶応三 年七月二叶日 小椋武左衛門2 十三仏 文化十哭酉三月 木地師佐平 一美氏は今東京に住んでいるが、この地に小椋家先祖代々之碑を立てて父祖の霊をまつり、前の住所から墓碑と十三仏の碑を、先祖のものだからと、昭和五十六年に移した。一美氏の祖父の記内は遠山(下伊那郡I村・南信濃村のある地域)に住んでいた。十三仏の碑は遠山の上村奥の地蔵峠ふもとにあって、十三仏はそこの地名になっていた。明治初年に遠山から下伊那郡大鹿村に移り、さらに大鹿村のうちの鹿塩に移った。その子喜市はまた鹿塩から上伊那郡長谷村栗沢に移っている。 駒ヶ根市北原墓地 駒ヶ根市北原墓地東南隅、小松氏墓地にある。高さ四二セソチの小さなもの。 前面(菊花紋陰刻)大岳良寿居士 大道貞寿大姉 右 木地職 大蔵定平 明治九年五月二十二日 大蔵定平は長谷村栗沢にいた木地師で天保三年(一八三二)頃いったん小県郡大門山に移り、 天保十年代に粟沢の北の女沢にきてまた栗沢に戻った。その後いつの時か駒ヶ根市中沢の奥、桃 平辺へ移り、そして小松と改姓したとみえる。同家は今駒ヶ根市に住んでおられる。昭和三十六年のいわゆる三六災害で、居住不能となり、 転居したと思われる。 高遠町勝間、慨勝寺西裏山 高遠町勝間から人家のない山道を遥々と登って行く。竜勝寺に着いたら左手にさらに登る。寺から三〇メートルほどで墓地になる。北村家の墓地(ここには郷土史家北村勝雄氏が眠っている)に続いて、木地師の墓が立っている。その奥には当寺歴代の住職の墓碑が四十一基も並んでいる。木地師の墓碑として明確なものは三基で、十数基の墓碑が三列に並んでいるうちの最後列。キメの細かい良質な石を用いてある。向かって右から掲げる。 1 (桐紋陽刻)清岳浄玄居士 文化十四r丑年(一八一七)二月十二日 観山智音大姉 嘉永元戊申年(一八四八)五月十七日 2 (菊花紋陽刻)隣山遊徳居士 文化元甲子年(一八〇四)十二月四日 先祖代々諸精霊 鏡岳玄光大姉 天保三壬辰年(一八三二)五月十七日 3 (桐紋陽刻)禅東携関居士 禅室妙心大姉 文化十四丁丑年(一八一七)八月九日 次の一基は紋がなく、木地師墓かどうか明確でないが、大蔵の姓を刻んであり、その可能性が濃い。 4 (紋なし)性道儀明居士 元治元甲子年(一八六四)四月四日 縫右衛門 大蔵重左衛門之立 これらの墓碑は、その辺に散らばっていたものを、何年か前に集めたという。どういう系続か、子孫が誰かは不明である。 竜勝寺山の木地師に蛭谷・君ヶ畑から氏子狩魂に人つたのは天保の末・弘化の初年で、それによってこの地に木地師がいたことが証明される。しかしこれらの墓碑により、そ れより前の文化年間以前から木地師がいたことが明らかになる。上伊那では、この他、長谷村黒河内、大揚寺裏山の大蔵家墓地に、木地師の墓碑が四基ある。大蔵家の兼市氏が黒川地籍を去る時に持って出た同家の古い墓碑だという。
by okasusumu
| 2013-05-19 14:58
| 長谷の自然と歴史
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アバウト
梅、桜。桃の木の花の饗宴が終わると待っていたように凍土だった大地が芽吹きだす。数年前、雑草の中に数本あった花だが、背の高い草を採ると、増えだした。今やルピナスの丘だ。下の田に水が入る頃は美しい。 by okasusumu カテゴリ
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