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2011年 08月 17日

双体道祖神

双体道祖神

 安曇野豊科の双体神。注意深く探していたら、電柱に張られたビラが目に入って来た。1週間後に近くの公民館で開催される講演会の案内である。歴史作家の井沢氏などが安曇族を語るらしい。ビラを見て頭を駆け巡ったのが傀儡子(くぐつ)であった。。f0067937_17375238.jpgf0067937_17381883.jpg

 道祖神が傀儡子の守り本尊であることはよく知られている。本来、海人部(あまべ)の民であった彼らが山住のたみとなり、もともと海人部の祭界であった矛を木の杖に換え、朝廷の馳使(はせつかい)になり、彼らの信仰する豊穣をもたらす神霊の宿る人形をクグツという容器にいれて諸国を祝福して歩いたから海人部の民が傀儡と呼ばれるようになったらしい。長野県の山奥の安曇野に入り込んだ安曇族は海人部の民だった。安曇族 ー海人部ー安曇野ークグツー道祖神であり、道祖神が多いのが頷けるのである。こんな話だったら聞いてみたいが、山荘からは中央高速を使って1時間、話の内容を推理するだけにした

路傍の石仏と民間信仰     
大護八郎  (昭和54年太陽社「日本の石仏」)

石のほとけ・石のかみ

石仏といえば、いうまでもなく石を素材とした仏像の意であり、金銅仏や木彫
仏等に対比される言葉であるが、特に近年著しく関心の高まりつつある石仏は、
いささか石仏の名をもって汎称するには問題がある。
 戦後しばらくして急に活況を呈した石仏は、まず道祖神であり庚申塔であった。
道祖神は地方では一般にさえの神といわれ、文献的には奈良時代の『古事記』『日
本書紀』にその発生譚が語られ、現在においても最も多くの人々に愛好されてい
るむので、長野県・群馬県をけじめ、東日本に数多く見られるものであり、庚申
塔もまた東日本を胞としながらも、全国的に著しい分布を兄ているものである。
 道祖神の本末の信仰と、現在に至るまでの造像・信仰の分化の過程には多くの
未解決の問題をはらんでいるにしても、既に占代において邪霊屈伏の神として考
えらていたことは明らかである。
庚申信仰、2、3世紀の頃、中国の道教徒によって唱えだされた。人間の体内に宿
るI.戸という虫が、庚申の晩に限り、人間の寝静まるのをまって体内から脱け
出して天帝の許に参り、その人間の犯した罪をこと大小となく報告する。天帝は
その報告に基づいてさまざまの罰を人間に与える。よって庚申の晩は徹宵して二
戸の体内より脱け出るのを防ぐこととなった。後に仏僧等の干与もあ って、こ
の夜は庚申の神に報寮し、経典等を誦してより効果的なものとすることになり、
近世に入っては全国津々浦々の庶民の問においても庚申待・庚中講が開かれ、講
中によって物凄い数の庚申塔の造立をみて今日に至っているのである。
 これらの道祖神・庚申塔は僅かながら木彫のものもあるが、その大半は石造の
もので、しかも村外れや辻などの路傍に造立され、風雨にさらされて佇立してい
るのである。最も数量も多く関心の高い道祖神・庚申塔は、仏僧の干与によって
蓮台のLに乗ったり、庚申塔の中には主尊を仏像にしているものもあるが、これ
らをもって仏と考えてきた様了はあまり兄られず、神としてみられてきたのであ
る。この故をもって石仏というよりむしろ石神と称すべきものであるが、今日な
お一般には石仏の名が通用している。 道祖神・庚申塔に次いで、その数量の
多いものに馬頭観世片があるが、これは系譜的には仏教の七観盲の一の馬頭観此
七日であって、石仏の名をもって呼ぶのに抵抗はない。しかしながら全国的に信仰
の実態を調べてみると、おびただしい近世以降の馬頭観匹音信仰は、馬の守護神
としての馬樫神・蒼前様と異なるものでなく、殊に東北地方の駒形神社には、山
の神的性格が濃く、道祖神と見誤りがちな木造の男根が報宴されている。おそら
く日本民族の、古代からの家畜としての馬の飼育に当たっての信仰に、途中から
七観音の一としての馬頭観世音が、その像容から在米の信仰の中に潜りこんで、
東北地方以外ではその座を奪っていったものであろう。
 その他、石仏と汎称されるものの中には、水神としての弁才天・作神としての
えびす・人黒・山の神像・田の神像、蚕神としての蚕上神、ドの病に霊験あらた
かな淡島様・山王様その他諸々の石神があり、神像としてあらゆる神が現われて
くるのである。
 勿論石仏の中には、仏説からきた地蔵・観音をはじめ、阿弥陀如来から、あらゆ
る如来像・菩薩像・天部・明王の諸像がある。その絶対数は、神像形・仏像形相
半ばするといってもよろしかろう。それにもかかわらずこれらを石仏の名におい
て汎称することは問題であるが、それは単に名称にこだわるだけでなく、往々に
して信仰の実態を見誤る恐れなしとしないからである。

石仏造立の時代的変遷

現存する石仏の八割近くは近世以降の庶民による造立と言っても過言ではなかろう。ことに東日本においてはその比率はさらに上回る。しかしほかの仏像と同様、庶民による造立以前、しかし中世以前の造立者は中央もしくは地方の豪族並びに僧侶、修験者であった。それは造立者の階層を異にするだけでなく、造立・礼拝の意図が近世以降とは大分異なっていたということができる。
近世に近い中世後期の室町時代の中頃から、板碑やその他の石造塔の中に、庚申待や月待の、近世以降花開く民間信仰関係のものが現われてくる。しかしそれ以前においては、仏教上のいわゆる如来・菩薩・天部・明王部等の純然たる石仏が主となっている。
 これらの石仏は彫法からいって、自然の岩壁を磨きたててそこに仏像を陽刻もしくは陰刻する磨崖仏と、河原石や岩壁から切りとった石材に、丸彫り・陽刻・陰刻するものの一万に大別される。磨崖仏は京畿・大分県・福島県に集中するが、その他の地方にも若干あり、近世以降にあっても、庶民・に心の造像とみられるものも存在する。
 磨崖仏の中には梢穴の周辺に残るものもあるので、磨崖仏を中心に木造の仏殿あるいは廂様のものを建て、一種の仏殿様式をとったもの、あるい。は寵風の横穴を穿ってその奥壁・側壁に仏像を彫刻したものもあるが、本来野天の露仏であったと考えられるものもあるそこで彫られた石仏は多くが侵線より高幻にあり、仏殿の本尊と同様に礼拝の対象としたものであろう。磨崖仏の中には深山幽谷ともいうべき人里離れたところにあって、修験者が行を結ぶ折の礼拝仏・加護仏となったとみられるものもあり、磨崖仏造立の一つの意味を窺わせる。
磨崖仏以外の、いわゆる独立石仏も、意とするところは礼拝の対象であり、仏殿の中または石寵に納められ、時には露仏としてあったと考えられるものもある。
総じて近世より以前のこれらの石仏は、大方は礼拝の対象仏であり、像容も仏像の手本である儀軌にのっとったものが多く、当0 これらの造立を吋能にしたかなりの財力を待った仏教信者の豪族か、その庇護による仏僧の造立で、若干は衆生の零細な喜捨に頼ったものがあったにしても、その量は微々たるものであったろうことは、当時の社会制度からも推察されるところである。これらは概ね奈良時代以降であり、殊に密教の盛んになった平安時代後期から鎌倉時代が全盛期とみられる。
奈良時代以前にも、飛鳥地方に主に見られるおそらく渡来人の手になるであろう男女抱擁像や善悪二神像、猿石その他がある。さらにそれに光立つ古墳刀立物としての福岡県岩戸山・石人山古墳をはじめ、北九州の大分・熊本の三県や山陰の鳥取県などの西日本に、石人・石馬などを兄ることができる。これらはどうも石仏の系譜からは異質のものである。
 現物は残らないが、『日本書紀』に敏達天皇の時に、百済から鹿深臣と佐伯連が仏像とともに石像を持ち帰ったとあるので、大陸系の仏像の将来されたものもあった筈であるが、これらの系列は、奈良時代以降の日本の石仏に直接つながりそうもない。
これらとは別に、奈良時代遍述の各国の風上記の中に、地名伝説と相まって仏や人間その他の形に似た自然石の、いわゆる「像石」信仰が現われてくるし、像石と限らず日本民族の古代信仰の中に立石・岩座・岩境や、宇佐八幡奥の院の御許山頂の三つ石等の出獄信仰と関連した岩石に関する数々の信仰が現われている。近世以降の民間信仰の石神・石仏は、
むしろこれらの石に関する民族信仰の再生・発現としての要素がより濃く現われているように思われる。

道祖神発祥の地は信州か

近世という時代は、ある意味においては、近代を経て現代に直結する時代として注
目すべき時期であり、兵農不可分の中世という時代から、兵農分離、さらには武士の城下町集住によって、農村は純然だる農民の社会となった。権門・蒙族・社寺に隷属していた石工は戦国時代の争戦によって旧族の多くは解体し、その庇護下にあった社寺も往年の経済的基盤を失い、勢い農民・町人に依存せざるを得なくなった。殊に元和堰武以来、城池の新築は勿論、修覆さえも大きな制約を受けて石工は失職して在方に流浪し、在方にあっても次第に高まりつつあった経済力と、武ヒの直接監視から離れて、富有層は前代までの武士に兄倣って信仰~の講を結成するとともに、諸々の信仰Lの造塔並びに墓石の造立に意欲を燃やすにいたり、ここに急速に村村の石仏造立の流行をみたのである。村村の墓地に初めて寛文から元禄期に墓石の造立をみ、その傾向が加速度的に高まったことがよくこれを証している。庚申塔の造立の最初のピークが寛文頃にあり、その他の道祖神や馬頭観世九日、弁才天その他の石仏の造立は傾向的にはややおくれるが、少なくとも中世までに見られなかったこの時代の顕著な特色となっている。寛文頃から庶民の石仏造立が急に始まったからといって、それ以前にそれらの信仰が庶民の間に無かったわけではない。
彼等は造像供養こそしなかったが、自然石や塚等の造立によって信仰の表白はしていた。寛永前後の庚申塔が、東北地方から九州にかけてほとんど同時発生していること、そしてあるところに始まった庚申信仰と庚申塔の造立が遂次伝播していったものでないことが、これを証している。
しかしながら双体道祖神のようなものになると、各地の研究家によって、本家争いがないではない。調査の進むにつれて各種の類型を編年し、その分布の流れを追って本源の地を割り出そうということも、必ずしも不可能なことではあるまい。双体道祖神の中心はなんといっても長野県と群馬県が挙げられようが、それを直ちに道祖神信仰の初源地におきかえることは危険である。しかし一つの信仰の発祥地がどこかにあって、逐次拡散されていったことは考えられることである。例えば道祖神が傀儡子(くぐつ)の守り本尊であったことは事実であり、笹谷良造氏は「傀儡子の民」(「国学院雑誌」59巻第1号)において、本来海人部の民であった彼等が山住の民となって、もともと海人部の民の祭界であった矛を本の杖に代え、杖部として朝廷の馳使になり、彼等の信仰する豊饒をもたらす神霊の宿る人形をクグツという容器に入れて、雛廻し(夷廻し)をしつつ諸国を祝福して歩いた故にクグツといわれた。長野県の山奥の安曇野に入りこんだ安曇氏は、海人部の民であったというのである。氏はそれをもつて道祖神神信仰の基が安曇野にあると言われるのではないが長野県の道祖神研究家の中には双体道祖神発祥の地をこの辺に求めようとする動き
がないわけではない。
 確かに記紀の道祖神(ふなどの神・さえの神)由来譚には、男神が邪神を駆逐するために杖を投げており、その杖がふなどの神とされ、磐石をもって塞いだのが塞ります黄泉の大神ともされている。また傀儡子は大陸からの渡来民との説も有力であり、夷廻しやオシラ遊びとの関係も云々されている。また信州に濃く、東日本中心に分布をもつ巨木や立石に依り憑くミシャグジ信仰をもって道祖神とし、出雲からやってきた諏訪氏族に屈伏しながらも、信仰的に支配した洩矢一族との関係を云々する説もある。
 右の二つの説にもみられるとおり、長野県と道祖神との関係には注目すべきものがあるが、それをもって直ちに群馬県よりも長野県を元祖とするには、道祖神信仰の本質がなお解明しきれない今日、無理であろう。ただ道祖神をもって、柳田国男が『石神問答』で、道祖神即ち塞神の塞はサク・ソコ・セキ等と同根で辺境の意であり「現に信州の佐久郡の如き、上毛の渓谷と高からぬ山脈を隔て、もと湖水ありて土着の早かりし地方と見受け候へば、蝦夷に対立して守りたる境線の義なるべく候。従ってサグジ又はシャグジも塞神の義にして、之を古代に求むとせば、或は石神とは直接の連絡はなく、却って甲斐などの佐久神と同じ神なるべきか」と述べており、佐久神即ちミシャグジ神と道祖神の関係を強調するとともに、信州がある時期に北方の対蝦夷の境線の神かともされている。
 この説を以てさらに敷行すれば、道祖神が信州・上州・甲州に濃く、この辺から周辺に波及したとも考えられ、関西にあまり道祖神が無く、九州に入って再び見られることは、この地が対隼人との境線であったことによって理解される。記紀にその発生譚があるからといって、勿論これを道祖神信仰の始まりということはできないし、その発生はさらに時代を遡るであろうし、あるいは外来の信仰であったかもしれない。よって近世以降の道祖神の造立の発祥地をそれに結びつけて考えることは無理であろう。ただ信仰の分布から推して、東国にその基があったであろうことは想像に難くない。
 信州の石仏で他地方と異なるものは、頭上に複数の馬頭を戴いた木曽郡中心の馬頭観世音の存在であって、さらに二体・一二体並刻像も同様である。その数は無病息災を祈り、あるいは供養する死馬の数という。在米種の小型の木曽駒は、木曽の材木運搬と深い関係があり、この地方の石仏の大半はこれで、村外れに数十体の馬頭群をいたるところに見ることができる。木曽を主に何故こうした様式が生まれたかは、地方色として注目に価しよ
う。

石像に見る山の神と田の神

日本の民間信仰の基盤として、稲作の豊饒をもたらす田の神は、新嘗を終わると山に帰って山の神となる。春先にはまた里に降りて田の神となるとは周知の事実である。中には季節による交替をしない純然たる山の神のあることも云々されているが、ここでは問わないこととする。
 ところがこれ程普遍的な山の神・田の神が、石像となると山の神は群馬・新潟以北の東北地方に、田の神は鹿児島県の旧島津藩領に集中して、他の地方にはほんの僅かを見るだけである。群馬・新潟の山の神は十二天・十二様と称され、一年十二か月にちなんでの作神であり,像容は双体道祖神によく似た男女2神の双体像であり、まま群馬県には単独像もある。田の神は一千躰近くが旧島津藩領に集中し、神官像・僧侶像とともに仕事着姿の
農民像が、杓子とお碗を主に持ち、甑(こしき)簀を冠った後姿は男根そのものであり、
若干の双体像もあるが多くは単体像である。その像容・祭事は道祖神によく似ており、特に伊豆型といわれる単体道祖神により近い。
 これ程日本民族の基本的な田の神・山の神像が、日本の両極にのみあって中央部に何故に無いのであろうか。勿論、像の造立をみていない中央部にも田の神・山の神の信仰はちゃんと存在する。思うに、日本の中央部は大陸からのさまざまな信仰がいち早く伝播するとともに、生活文化の展開も早く、民間信仰自体も次次に分化して、それに伴って像容自体も分化をくり返していったためであろう。
田の神として稲作その他の作物の豊作をもたらす神としては、弁天その他の水神が分化し、さらに恵比須・大黒天像として機能を分かち、庚申や道祖神から地蔵・観音等の仏まで作神としての一翼をになっているのである。作神としての鼻取り地蔵・田掻き地蔵、田の神の機能の一つにある子孕み・子育ても如意輪観七日や地蔵がちゃんと分担しており、牛馬の無病息災には大日如来が、むしろ専業的機能を受け持たれていたのである。
 北日本の山の神像は、山仕事の安全を護り、十二様のように豊作の神とされる他に、安産・子育ての神として、山の神が産室に臨まれぬ限り出産はおこなわれず、また生まれた子の一生を出産時にそこに立合った山の神が握っておられる。牛馬の出産・成長もまた山の神の任務と考えられ、日本中央部の八百万の神の機能を一身に担っておられるのである。
このように素朴な形の山の神・田の神信仰のまま石神、石仏造立期まで受け継がれてきたからには、他の石神・石仏造立の必要を感じないのは当然である。勿論日本の北と南の両極には、山の神・田の神のみの造立ばかりというわけではない。東北における大黒天像、鹿児島における保食神は多く、庚申塔や道祖神像、その他のものの造立も皆無ではない。

同一の地下茎につながる石仏、石神
稲の成長に欠くことのできない水の神としての頭上に鳥居を戴き、矛や宝珠を持つ弁才天の石像は、農村の畦道や泉のほとりなどによく見かけられ、農民の水に対する並々ならぬ信仰をみてとることができる。しかし琵琶を弾ずる弁才天像もまま見られる。琵琶を弾ずる像は、立日楽の神こ云能の神として一般に受けとられるにかかわらず、立日楽に無縁な農村に何故にこの像が見られるのであろうか。古老の言によると、苗代や蚕室に瞽女を招いて三味線にあわせて歌ってもらうことによって、苗の成長をはかり蚕の成育を祈ったという。
 このように農民の願望は悉く豊饒祈願に連なる。日待供養塔・月待供養塔も同
様であって、「日月清明・風雨順時・五穀豊饒・天下泰平」が、農民のあらゆる祈
願に先行する。本来の信仰が何であれ、庚申信仰も道祖神信仰も、農民の多くは
これらを作神として受けとってきた。豊作こそ個体・種族保存の要であった。
 また多彩な石神・石仏の銘の多くに「現当二世安楽祈願」とある。現世と来世の
安楽は人間の究極最高の願望であったが、それとて五穀豊饒こそが基盤であり、死
後心安らかに子孫の繁栄を見守って満足できるのも、子孫の飽食あってのことである。
阿弥陀も、観音も地蔵もその他諸諸の石仏造立も、来世の安楽往生の功徳に連なるものにちがいないが、現世において食うや食わずのきびしい生活を生きぬいてきた農民にとっては、蓮の台に乗り香華聖楽のあの世に楽しみを甘受するよりも、まずは飢餓の苦しみから脱れることを理想とした。仏事における「お高盛り」の白飯が、死者への最高の供養であったのである。
 阿弥陀の石像造立は、その功徳によって西方浄土に赴くことへの期待はあるにしても、路傍の阿弥陀の石仏に期待するものは、もうちょっと現実的なものであった。薬師如来像の前に溜った水で眼病を癒し、自分の病む個所の石仏をさすり、持病の平癒を祈願する。庚申様に掛けられた小さい竹筒の「おみきすず」のお水が、治病の薬として戴かれる。人はこれを迷信といっても、他にすがるものもない一昔前の庶民は、そうせざるを得なか
ったのである。そこに民間信仰の石神・石仏の理屈を超えた信仰があったのである。
 そこに造立された石神・石仏が本来どのような神であれ仏であれ、庶民はその詮索はどうでもよかったのである。そこに日本民族本来の多神教の伝統があった。 それぞれの石神・石仏の本質究明の努力は勿論大切である。しかし庚申信仰の本義を、文献的に明らかになしえても、それが直ちに庶民のおびただしいまでの庚申塔造立の意図に連なるわけではない。 所詮は一つの地下茎に連なる同根の石神・石仏であったのである。
               (日本石仏協会 大護八郎  昭和54日本の石仏)



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by okasusumu | 2011-08-17 17:38 | 山荘周辺の文化財


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