信州かくれ里 伊那山荘

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2011年 07月 14日

蚕玉大神・二十二夜塔

蚕玉大神 和泉原集落の入り口にある。「ああ野麦峠」の岡谷に近く、このあたりも養蚕は盛んだった。

二十二夜塔 蚕玉大神に並んでほかの石仏とともにある。ほとんどが文字碑である。相模の国では月待塔は二十三夜塔であり、、間違いかなと調べてみたところ地域により違いがあるようだ。

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かいこの神を「蚕玉(こだま)」と読む。その昔、養蚕が盛んだった地域では、蚕玉神、蚕神、蚕玉大神、蚕玉神社、などと書かれた文字碑が多く見られる。なお「蚕」の旧字体で「蠶」を使ったものが多い。
「玉」の代わりに「魂」を使ったものもある。
ほかに、養蚕神、蚕影(こかげ)などと書かれたものもある。

「神虫」と書いて、「かいこ」と読ませる異体字も、ときどき見かける。養蚕は、農村地方にとって、現金収入を得られる貴重な産業で、神の虫と呼ぶくらい大事にされていたことがうかがえる。

かいこの神として、女神が彫られたものもある。波に乗り、繭玉(まゆだま)を手にしていることが多く、この女神の名は「金色(こんじき)大天女」という説もある。
また、馬鳴菩薩(めみょうぼさつ)が蚕の神であるという説があり、馬に乗った石像も作られている。貧しい人々に衣服をさずけてくれる菩薩とされる。
 
「あヽ野麦峠」によれば、製糸産業によって得た外貨で、国は軍艦を買い、国力増強に努めた。野麦峠を越えてやってきた乙女たちの手がつむぎ出す、細い絹糸が、まさに国の命をつないでいたのである。



二十二夜塔
月待行事にかかわる石造遺物として、月待塔がある。信仰に対する供養を目的に造立されたもので、二十三夜塔を中心に各地で確認されている。これらを系統的に調査・分類することによって、造立された時代における信仰の実態をある程度推測することも可能である。ただし、現存する遺物は中世以降に集中しており、それ以前における有力な手がかりはほとんど見あたらない。
【月待板碑】
 中世に造立された板碑の一種で、月待供養を目的としたものです。関東地方に多く、薄い板状の石のほとんどが緑泥片岩を素材としているため青石塔婆とも呼ばれます。現存する最古の月待板碑は、1441(嘉吉元)年造立とされている〔『月待板碑の誕生』文0132〕。

【月待五輪塔】
 板碑とは別に、地輪部に「月待供養」の銘がある五輪塔がいくつか知られている。東京都西部のあきるの市には2基の月待五輪塔があり、そのうちの1基は1486(文明18)年の造立。この塔は空輪部と風輪部が欠損しており、現存する地・水・火輪部の高さは約45㌢となっている。中世の月待史料としては板碑よりも少なく、貴重な存在といえる。

【月待供養塔】
 通常、石造物に"〇〇夜(待)供養"とあるものを総称して月待供養塔としていうが、これらがすべて実際の月待信仰とかかわりがあったかどうかは明らかではない。月待板碑の後をうけて、主に近世から大正時代にかけて造立され、関東地方の利根川流域などでは、江戸時代初期と後期にそのピークがみられる。
 現在知られているものでは、十五夜、十六夜、十七夜、十八夜、十九夜、二十夜、二十一夜、二十二夜、二十三夜、二十六夜などの供養塔があり、地域によってかなり偏った分布を示しています。関東地方では、多摩川水系や相模川水系において二十三夜塔を主体とし、荒川水系では二十二夜塔が多くみられる。また、広大な流域をもつ利根川水系にあっては、山間部上流域の二十一夜塔、中流域の二十二夜塔と十九夜塔の明瞭な分布境界の存在、さらには下流域から茨城県、栃木県、福島県にいたる十九夜塔の広域的な分布など、それぞれに特徴をもった現況が認められる。なお、十九夜塔は、長野県や奈良県などにも分布しています。
 
 月待塔における主尊の選択は、ほとんどが仏教の教義に基づいており、十九夜と二十二夜では如意輪観音、
 二十三夜は勢至菩薩、そして二十六夜が愛染明王とほぼ決まっている。これらは、石造物としての形態の変化とともに、時代背景や石工の技量ともあいまって実にさまざまな像容を表現している。
 ただ、二十三夜塔においては主尊を刻さない文字だけの塔が多いことや、江戸で大流行をみせた二十六夜待に関しては、信仰の広がりに比べて遺されている二十六夜塔が極端に少ないなど、月待信仰の実態を解明するうえで重要な鍵を握っているとみられる。
 また、近世の石造物であっても、単に「月待供養」と刻まれた地蔵菩薩や月待講中が造立したさまざまな形態の石造物も認められる。二十三夜の供養を目的とした場合も、地蔵菩薩を主尊としたものや石灯籠、石幢、石祠などを含めて広義の月待塔に含める見方があり、神道系の「月読尊」にかかわる石塔も同様です。このように、月待塔の分類はさまざまな要素の組み合わせにより成立している側面がある。

【造立の実態】
 供養塔は、月待講中による造立が一般的です。十九夜塔や二十二夜塔などでは女人講の比率が高く、同一地区で数十年おきに造立された事例もみられます。近世後期以降の文字だけの銘文を刻した石塔では、その台石部分に講中の人名を刻んだものがあるが、供養塔の造立となれば、それ相応の金銭的負担が発生することになり、それぞれの時代において地域社会の一員として果たすべき責任が明確になっていたようである。
 【月待塔に表れた月】
 月待信仰を代表する二十三待では、旧暦二十三夜の月を拝することが第一の目的。各地の伝承も、概略ではあるすがそのような行事の実態をよく伝えています。二十三夜塔のなかには、月の姿を石に刻んだものがあり、そこから当時の人びとが二十三夜月に対して抱いていたイメージを推察できる。こうして比較してみますと、同じ事象に対する感覚には、相当の曖昧さがあることがわかる。
 旧暦二十三夜の月といっても、月齢はいつも同じというわけではない。実際には、下弦(半月)を境にして少し膨らんだ姿から逆に少し細くなった形まで変化がみられます。石塔に刻まれた月は、総体的に細い傾向を示しているが、傾きに対する誤解はともかくとしても、形に関しては二十六夜の月と混同した傾向が認められる。要するに、その地域の知識人や僧侶、造立にあたっての世話人や願主、あるいは実際に作業する石工などの複合的な感覚の産物といえる。
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by okasusumu | 2011-07-14 09:41 | 山荘周辺の文化財


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