信州かくれ里 伊那山荘

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2011年 06月 27日

山の神様の石像?

土蔵の先、約50メートルの森の斜面にある。傾いているので直そうとしたが動かず、そのままの状態で、周囲の竹を刈り取った。前は獣道、シカやイノシシが行き来している。f0067937_9543310.jpg
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 しばらくは、石仏として、合掌し頭を下げていたが、そのうち輪郭が、仏様というより、神様に近いと見えるようになり、挨拶を2礼2拍手1拝に変えた。
よく考えてみれば、信州は石仏の故郷ともいえる地である。しかし、日本の民間信仰の基盤として稲作の豊穣をもたらす山の神、田の神の石像は知られていない。調べてみると山の神は群馬、新潟以北の東北地方、田の神は鹿児島に集中していてほかの地方にはほんの僅かに見るだけだそうだ。しかも、群馬、新潟に見られる山の神は十二天・十二様と称されて1年12か月にちなんでの作神であって、双体道祖神に似た男女2神の双体像で、単独像は少ないらしい。してみるとこの神様、極めて珍しいと言うことになる。
 とはいえ、本来、どのような仏であれ神であれ、この地の人はどうでも良かった。そこに日本民族本来の多神教の伝統が見えて来る。
 この石像より先、森の斜面にに、山の神の祠が2か所ある。
折りをみて山の神の石像がなぜ少ないのか、また旅稼ぎの高遠石工について調べてみようと思う。

「山の神」Wikipedia:
農民の間では、春になると山の神が、山から降りてきて田の神となり、秋には再び山に戻るという信仰がある。すなわち、1つの神に山の神と田の神という2つの霊格を見ていることになる。農民に限らず日本では死者は山中の常世に行って祖霊となり子孫を見守るという信仰があり、農民にとっての山の神の実体は祖霊であるという説が有力である。正月にやってくる年神も山の神と同一視される。ほかに、山は農耕に欠かせない水の源であるということや、豊饒をもたらす神が遠くからやってくるという来訪神(客神・まれびとがみ)の信仰との関連もある。
猟師・木樵・炭焼きなどの山民にとっての山の神は、自分たちの仕事の場である山を守護する神である。農民の田の神のような去来の観念はなく、常にその山にいるとされる。この山の神は一年に12人の子を産むとされるなど、非常に生殖能力の強い神とされる。これは、山の神が山民にとっての産土神でもあったためであると考えられる。山民の山の神は禁忌に厳しいとされ、例えば祭の日(一般に12月12日、1月12日など12にまつわる日)は山の神が木の数を数えるとして、山に入ることが禁止されており、この日に山に入ると木の下敷きになって死んでしまうという。
また、女神であることから出産や月経の穢れを特に嫌うとされるほか、祭の日には女性の参加は許されてこなかった。山の神は醜女であるとする伝承もあり、自分より醜いものがあれば喜ぶとして、顔が醜いオコゼを山の神に供える習慣もある。なお、山岳神がなぜ海産魚のオコゼとむすびつくのかは不明で、「やまおこぜ」といって、魚類のほかに、貝類などをさす場合もある。マタギは古来より「やまおこぜ」の干物をお守りとして携帯したり、家に祀るなどしてきた。「Y」の様な三又の樹木には神が宿っているとして伐採を禁じ、その木を御神体として祭る風習もある。三又の木が女性の下半身を連想させるからともいわれるが、三又の木はそもそもバランスが悪いため伐採時に事故を起こすことが多く、注意を喚起するためともいわれている。
日本神話では大山祇神などが山の神として登場する。また、比叡山・松尾山の大山咋神、白山の白山比咩神など、特定の山に結びついた山の神もある

神社合祀令 一村一社を原則

 一九〇六(明治三十九)年に政府から出された神社合祀令とは、一村一社を原則として小さな社や祠を破壊して、他の神社に併合させるという政策である、神社合祀今は、神道の国共化政策として推し進められることになった・
 一八七一 (明治四)年の太政官布告によって、全国の神社は、宮社i府県社-郷社丿村社
-無格社の五段階に格付けされることとなった。伊勢皇大神宮を頂点に系列化されることと
なったのである。そして、一九〇六(明治三十九)年五月に、「府県郷社二対スル神饌幣帛
料ノ供進」に関する勅令が公布された。これは府県郡市町村が、供えものをできる神社の条
件を記すことで、無格社や小さな社は整理した方がいいという論拠を与えることとなってし
まった。そして、同年八月に「社寺合併並合併跡地譲与二関スル」勅令が公布されたのであ
る。
 それまで一つの自然村には、一つの産土神を祭る社があったのだが、急速な町村合併によ
って、二つ以上の産土社を持つ町村が生まれた。勅令は、各行政村ごとに一社を原則として、
その他の産土社をはじめとした、さまざまな小さな社や祠を統廃合してしまえと命令したの
である。その結果、一九〇六(明治三十九)年から一九一一 (明治四十四)年末までに、全
国でおよそ八万の村社が合併または廃止となった〔村上 一丸七〇 ニ八七〕。
 その施行は、各知事や各郡町村長に一任されたため、地方によって事情は違った。全国で
最も合併による破壊が進められたのが、伊勢神宮のある三重県であったが、それに次ぐのが
南方熊楠のいた和歌山であり、約五分の一にまで社は激減した。
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by okasusumu | 2011-06-27 09:54 | 山荘周辺の文化財


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